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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第217話 モルエラニ、旗一本、名前三つ


西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ/盛夏)

カラベルは潮を切って走り、蝦夷の海の青を縫っていった。

函館を出てから、空気の匂いが少し変わった気がする。海藻の濃い匂い、湿った森の匂い。

ピリカが舷側に立って、遠くを指さした。

「あれ……モルエラニ」

「どれじゃ?」

お市様が目を細める。

海の向こう、少し小高い山が、ぽこんと肩を出している。その根元に――自然が抱え込んだような、箱ではなく“腕”の形の入江が見えた。

忠次が舌を巻く。

「……なるほど。波が当たらぬ。天然の良港ですな」

元康は、目の奥だけ笑った。

「姫様、見ただけで“桟橋が増える顔”です」

「増やすに決まっておろう」

利家が即ツッコミを入れる。

「はい出た! 偵察の顔した出店攻勢!」

慶次が肩を揺らす。

「ここ、港にしたら、次はどこや? 姫様、もう“蝦夷の空き地探し”が趣味になっとるやろ」

「趣味ではない。事業じゃ」

「趣味と事業が同じ速度で走っとるのが怖い言うとるんや!」

カラベルは帆を落とし、潮に乗せて入江へ滑り込んだ。

水面は静かで、まるで湖のようだ。小舟を降ろし、兵が先に岸を確かめる。足元は砂と小石、背後は森。小高い山が風を遮っている。

「降りるぞ」

お市様が、真っ先に小舟へ移る。

ピリカ、利家、慶次が続き、火縄銃隊が慎重に周囲を見ながら上陸した。

上陸した瞬間――お市様は、待ってましたとばかりに背負い袋から布を取り出す。

深紅の旗。狂犬の旗。

利家が眉をひそめた。

「姫様、早い早い! まず周り見てからやろ!」

「旗は先じゃ。ここは、良い港町になる。見た瞬間に分かった」

「理屈が戦国やない。現代の不動産屋や!」

お市様は笑いもせず、地面に杭を打ち込んだ。

布が風を受けて翻り、深紅が森の緑に刺さる。

「よし。モルエラニ、狂犬堂の旗、立った!」

慶次が拍手しながら言う。

「はい、開店!」

忠次が真面目に続ける。

「では開発開始。……元康殿、指揮を」

お市様は、振り向きざまにさらりと言った。

「元康。丸太小屋、倉ひとつ、柵。桟橋一本。予定どおりじゃ。――丸投げじゃ」

元康は、ため息ひとつで受ける。

「承知」

「軽っ!」

利家が叫ぶ。

「元康、慣れすぎや!」

「姫様が“丸投げ”と言う時点で、もう工程表が頭に出てくるだけだ」

「怖いわ、三河組!」

忠次が手際よく人を割り振り、旗本先手役が斧と鋸を構え、丸太を選びに森へ入っていく。

槌の音が、まだ誰も名付けていない土地に、最初の“人の音”として響いた。

その間、お市様はピリカと利家と慶次を連れて、火縄銃隊五十を左右に広げ、周囲の偵察に出た。

森は深いが、獣道がある。足元の湿り気が、函館より強い。

ピリカが低い声で言った。

「ここ、鹿多い。熊も……いる」

「熊はまあ、慶次が喜ぶだけじゃ」

慶次が胸を張る。

「呼んだ? 熊は友達。友達には情けの槍で――」

利家が即座に遮る。

「やめろ! その“情け”で脳天割るやつやろ!」

「割らん割らん。ちょっと撫でるだけや」

「撫で方が凶悪なんよ!」

お市様は、背中に乗せた袋の中で動く気配を感じ、歩みを止めた。

子狼たちだ。湯の川で洗われ、今は毛並みが少し整っている。

小さな鼻が、くんくんと空気を嗅いでいる。

「……のう、ピリカ」

「なに」

「この子ら、今日で名を決める」

利家と慶次が同時に振り向いた。

「お、ついに!」

「姫様、毎日悩んどったもんな!」

お市様は袋から、子狼を順番に抱き上げた。

まず雄。目の色が鋭く、落ち着いている。耳がぴんと立ち、周りをよく見ている。

「雄は……ぎん

「銀?」

慶次が首を傾げる。

「毛、銀色なんか?」

お市様は雄の額を撫でる。

「違う。こやつは、群れの“硬い芯”になる。銀は、冷えても折れぬ。……そんな顔をしとる」

利家が納得したようにうなずく。

「姫様の名付け、意外と詩的やな」

「意外とは余計じゃ」

次に雌を抱き上げる。

ひときわ小さく、鼻先が白い。抱き上げた瞬間、指先をぺろっと舐めた。

「雌は……ゆき

ピリカが、少しだけ目を丸くした。

「ユキ……白い。きれい」

「そうじゃ。冬の越冬村、湯の川、函館――雪は避けられぬ。なら、味方にする」

最後の雌は、落ち着きがあり、警戒心が強い。じっとピリカの方を見ている。

ピリカが小さく息を飲んだ。

「この子……つよい目」

お市様は頷く。

「雫が凍って、槍になる。――つらら」

慶次が思わず笑う。

「姫様、名が凶器寄りやん!」

利家が肘で突く。

「お前の槍よりは優しいわ!」

「えっ」

ピリカは、三匹を見て、ゆっくり頷いた。

「ギン。ユキ。ツララ。……覚える」

「覚えるだけではないぞ」

お市様はピリカの背中を軽く叩いた。

「ピリカ。お主は、ここでも幹部じゃ。銀雪つららの教育係も追加じゃ」

「……丸投げ、すき」

「好きじゃ。人は任せて伸びる」

利家が呆れ顔で空を見上げる。

「任せられる方は伸びる前に腰が折れるんよ……」

慶次がにやにやする。

「でも、なんやかんや皆ついていく。怖い旗やな、狂犬旗」

その時、火縄銃隊の先に出していた者が、手を上げた。

「姫様。足跡、多い。鹿と……熊のも混じってます」

お市様の目が細くなる。

「よし。帰る道は確認したな。今日は巣を探さぬ。港を先に固める。熊は、港が出来てから狩る。――人が先じゃ」

「了解」

ピリカが静かに言った。

「姫、争い、しない。……でも、守る」

「守る。守るために、旗がある」

そう言いながら、お市様はふと振り返った。

遠くに深紅の旗。

その下で、元康が指示を飛ばし、丸太が運ばれ、縄が張られ、桟橋の杭が打たれている。

――たった半日で、土地の顔が変わっていく。

利家が呟く。

「……ほんまに、港が増えるわ」

慶次が笑った。

「増えるだけやない。名も増える。狼も増える」

お市様は、銀の頭を撫でる。

「名があれば、守れる。守れれば、増やせる。――簡単じゃろ?」

「姫様の“簡単”は信用できん!」

利家の叫びが、森に吸い込まれた。

祐筆・桃の日記(狂犬記)

西暦1555年8月2日(天文24年・葉月二日ごろ)

蝦夷の土地は、名がつくと急に近くなる。

姫様が「モルエラニ」と口にした時点で、そこはもう“次の函館”だったのだと思う。

旗は、交渉より先に立つ。だが不思議と、奪うための旗ではない。

「奪わぬ、壊さぬ、交易する」と言い切ったうえで、守るための人数と道具を持ち込み、港を作る。

相手がいれば話し、飢えていれば飯を出す。――狂犬堂のやり方は一貫している。

そして今日、狼三匹に名が付いた。

銀、雪、つらら。

蝦夷の冬を味方にするような名だ、と私は思う。

帳面の上では、港は“拠点”という文字で片付く。

だが現地では、旗一本と、杭一本と、名ひとつが、人の心を動かしている。

姫様の暇は恐ろしい。けれど、暇の先に必ず「守れる仕組み」を置いていくのが、なお恐ろしい。

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