第214話 湯の川の名と、甲斐の腰
西暦1555年7月15日(天文24年・文月十五日頃・盛夏)
蝦夷・湯の川。
函館の東、川沿いに湧く温泉は、すでに木の囲いと丸太の桟道で整えられ、湯気が白く立ちのぼっている。
「……あったかいのう」
お市様は専用露天に肩まで浸かり、ふうと息を吐いた。
横にはピリカ。湯に慣れぬ様子で、やや緊張している。
「蝦夷の冬は厳しい。だが、湯は優しい」
「……こんなに、ずっと湧いてるの、すごい」
「神の贈り物じゃ。ゆえに、商売になる」
子狼三匹は湯の縁で丸くなっている。まだ名は決まらぬ。
「お市様、もう決めればよいのでは?」とピリカ。
「名は魂を縛る。急いではならぬ」
「さっき“雪丸”にすると言ってた」
「却下じゃ。可愛すぎる」
子狼の雄が小さく吠える。
「うるさい、そなたは……速いな」
「速い?」
「目が鋭い。動きも軽い。……セナ丸?」
「急に南蛮名」
「却下じゃな」
湯気の向こうから男湯の笑い声が響く。
隣の露天では、元康、忠次、利家、慶次が湯に浸かり、徳利を回している。
「蝦夷に温泉街を作るとは、姫様は本気だな」元康が静かに言う。
「本気でないと、姫様ではない」と忠次。
利家が酒をあおる。
「温泉街ができたら、絶対に色町ができる」
「やめよ」と元康。
慶次は笑う。
「いや、俺は歓迎だ」
忠次が真面目な顔になる。
「湯ノ川は湯治場になる。兵も民も回復できる。北の拠点として強い」
元康が湯を掬う。
「国を作るとは、こういうことか」
利家が空を見上げた。
「蝦夷の星は近いな」
湯気の向こうで、お市様が大声を出す。
「名が決まらぬ! 誰か案を出せ!」
慶次が叫ぶ。
「“天下丸”!」
「却下!」
蝦夷の夏は短い。
だからこそ、笑いは濃い。
そのころ、尾張・熱田。
狂犬堂は戦場であった。
銭が鳴り、客が叫び、南蛮商人が値を競う。
寧々は帳場で指示を飛ばしている。
「桃! 堺向けの紅粉、数足りひん!」
「追加製造済み。三刻後に到着」
「はやっ」
桃は平然と帳面を繰る。
「信長様の融資分、第一便の造船費計上済み」
「それ、儲かるん?」
「儲かる前提で契約済みです」
寧々は腕を組む。
「うちら、戦国一の化粧品会社やな」
「八年前からです」
奥では“狂犬織 寧々ブランド”の新作打合せが続く。
「この反物、光沢が足りへん」
「絹糸の撚りを変えましょう」
「それ、コスト上がるで?」
「価格も上げます」
狂犬堂は、商いで天下を削っている。
まつは別室で女性幹部たちを前に話していた。
「いい? 料理は心やけど、店は仕組みや」
「はい!」
「人を育てるんや。味だけやない、背中で示すんや」
まつの目は本気だった。
食の世界もまた戦場。
そして――。
熱田の一角に、新たな行列ができていた。
「武田流うどん甲斐裏打ち会 ツツジ」
暖簾の前で、三条の方が堂々と立つ。
「次の方どうぞ」
半透明の麺が、井戸水で締められる。
腰は強く、喉越しは鋭い。
天ぷらが揚がる音。
「ごぼう天追加で!」
「麦のエールも!」
晴信が腕を組む。
「……うまい」
山本勘助が真顔で言う。
「戦で負けるより、味で負ける方が悔しいですな」
三条の方は誇らしげだ。
「甲斐の麦は強いのです」
晴信は笑った。
「戦わずして天下を削る。……面白い」
その様子を見ていた前田まつの目が燃える。
「……負けへんで」
寧々が横から笑う。
「まつ、震えてるで」
「魂がな」
熱田は、銭と味と夢が交差する都となりつつあった。
祐筆桃の日記(狂犬記)
西暦1555年7月15日(天文24年・文月十五日頃)
蝦夷では湯ノ川温泉整備進行中。姫様、子狼命名に難航。
国造りと名付けは似ている。急がぬが、必ず決める。
熱田は過熱。化粧品、織物、飲食、すべて拡大中。
三条殿、武田流うどん開店。甲斐麦の腰、強し。
信長様は南方構想継続。速度は落ちぬ。
速い者には契約を。熱い者には仕組みを。
北で湯が湧き、南で麺が湧く。
戦なき天下取り、進行中。




