第212話 蝦夷富士は歌う、関川は走る
西暦1555年7月10日(天文24年・文月十日ごろ/盛夏)
蝦夷の朝は、鳴る。
波が低く唸り、森が深く呼吸し、空が広すぎて目が痛い。
函館の港町を少し離れたところで、狂犬お市様は腕を組み、弁当包みをひょいと担いだ。
中身は塩鮭、干しホッケ、鹿肉の燻製、麦のパン、そして味噌玉。狂犬式、山歩き仕様である。
「さあ、行くぞ。今日は“遠足”じゃ」
「姫様、それ、兵200連れて遠足って言うんすか?」慶次が笑う。
「遠足じゃ。弁当持ってるし」
利家が真顔で頷く。
「弁当があるなら遠足です」
酒井忠次が額に手を当てた。
「理屈が雑すぎる……」
先頭を歩くのはピリカだ。
蝦夷の森の歩き方、川の渡り方、風の読み方。足音すら消える。
元康が目を輝かせて言った。
「ピリカ殿、道が“見えてる”みたいに歩きますね!」
ピリカは肩をすくめる。
「道は、ある。見えないのは、和人の目だけ」
慶次が横から口を挟む。
「かっけぇ……姫様、うちの軍、急に強くなってません?」
お市様はあっさり。
「もともと強い。情報が付くと、もっと強い」
その足元を、三匹の子狼がころころ走る。
湯ノ川で洗われ、毛並みはつやつや、顔は得意げ。すっかり“狂犬家臣”の顔になった。
「なあ姫様、こいつら名前、まだっすか?」慶次が聞く。
「考え中じゃ」
利家が真面目に提案する。
「では、雄は“槍丸”、雌は“槍子”“槍姫”で」
「やめい、前田家の病が伝染する」
「えっ、病扱い!?」
忠次が小声で元康に言う。
「殿、今のうちに止めましょう。名前は一生残ります」
元康は真剣に頷いた。
「分かった。まずは“可愛い”から入ろう」
山道は大沼、小沼へ続き、湖面は鏡みたいに空を映していた。
湿った風が頬を撫で、森の匂いが濃くなる。
湖を越えた先で、ふいに視界が開ける。
青い空に、三角の山がすっと立っていた。裾野はゆるく、形はどこか懐かしい。
お市様が指を差す。
「よし。あれは蝦夷富士じゃ」
忠次が即座に突っ込む。
「姫様、適当すぎます!」
「全国どこでも富士の形をした山はある」
「それ、論理じゃなくて開き直りです!」
元康がなぜか感動している。
「名前がついた瞬間、地図が生きる……!」
慶次が肩を揺らす。
「殿、感動するところ違うっす」
お市様はご機嫌で歩きながら歌い出した。
尾張の民謡とも違う、戦歌とも違う、鼻歌みたいな軽い調子。
「蝦夷は広いぞ、腹も減るぞ、鮭が待つぞ〜」
「歌詞が現実的すぎる!」と忠次。
「姫様、次は“温泉が湧くぞ”も入れてください」と慶次。
「欲張るな」
弁当休憩のとき、ピリカがぽつりと呟いた。
「この山の向こう、獣が多い。怖い獣もいる」
利家がすっと槍を立てる。
「ヒグマですか」
「熊も。狼も。……人も」
その言葉に、元康の顔が引き締まった。
お市様は、弁当の包みを結び直し、淡々と言った。
「怖いものがあるなら、町を強くするだけじゃ。道を作り、湯を押さえ、港を太くする。交易で腹を満たす。医で命を繋ぐ。学で迷いを減らす」
慶次が笑いながらも真剣に返す。
「姫様、全部セットで言うの、ずるいっすね」
「ずるいのではない。合理的なのじゃ」
狼の子が、きゅん、と鳴いてお市様の膝に頭を乗せた。
お市様はその頭を撫で、ぽん、と言う。
「よいか。ここは“戦で取る”土地じゃない。“暮らしで取る”土地じゃ」
忠次が静かに頷いた。
「……はい」
蝦夷富士は、遠くで黙って見ていた。
同じ頃――越後、春日山。
春の帰還から、景虎姉上は止まらなかった。
城下の関川流域。
税を外し、鍬を増やし、土を動かし、堤を立てる。
直轄家臣のお船が、現場の泥を跳ね上げながら叫ぶ。
「はいはい! そこで止まるな! 土俵じゃない、堤だよ堤!」
兵たちが「へい!」と返し、土嚢が飛ぶ。
工事は突貫。だが段取りは妙にきっちりしている。
景虎姉上が視察に来ると、空気が変わる。
「関川は暴れる。なら、先に“道”をつける。水にも、民にも」
お船がニヤリと笑う。
「姉上、言い方が格好いいだけで、やってることは土木の鬼です」
「褒め言葉と受け取る」
治水が形になり始めると、畑の計画も動く。
馬鈴薯、唐芋、水田、そして換金作物。
越後を“食う国”から“売る国”へ。調味料の流れまで握りにいく。
景虎姉上は筆を走らせながら呟いた。
「戦は、腹が減るから起きる。腹が満ちれば、頭が働く」
お船が肩をすくめる。
「姉上、それ、今川みたいなこと言ってますよ」
「今川の良いところは盗む。悪いところは捨てる。それが最速だ」
そして――海の向こう。沿海州、羅津。
伊賀上忍のこゆき、つらら、みぞれが、涼しい顔で商館の帳簿をめくっていた。
「女真の連中、値切り方が雑だね」こゆきが笑う。
「雑なのは、こゆき様の交渉も同じ」つららが即ツッコミ。
みぞれが静かに言う。
「黒テン、増えた。銀も増えた。つまり勝ち」
「みぞれ、それ好き」
越後商館は完成し、狂犬堂の品が並ぶ。
石鹸も、化粧も、油も、薬も、布も。
“どこでも同じ品質”が、異国では武器になる。
朝鮮の商人が目を丸くして言った。
「この白い石、泡が出るのか」
こゆきがにこり。
「泡が出るだけじゃない。信用も出るよ」
つららが言う。
「言い方が詐欺師」
みぞれが小さく頷く。
「でも事実」
銀と黒テンが積み上がっていく。
越後の背中に、新しい海が生まれていった。
蝦夷の遠足が、越後の土木と、羅津の商いに繋がっている。
五か国の同盟は、もう紙の上だけの約束ではない。
現場で、土で、湯気で、泡で、銀で、形になっていく。
そして、そのすべての“血の巡り”を、桃が見ている。
桃の日記(狂犬記)
西暦1555年7月10日(天文24年・文月十日ごろ)
蝦夷では、お市様が弁当持ちで兵を連れて山に行ったらしい。
弁当があるから遠足、という理屈は分からないが、姫様らしい。地図に名前を付ける速度が異常で、「蝦夷富士」がまた増えた。全国に富士はある、という開き直りまで含めて、あれは姫様の統治術だと思う。名前が付くと、人はそこを“自分の場所”として考え始める。
越後では景虎姉上が関川を治めた。無税にして兵を動員し、土木を一気に終わらせる手つきが早い。お船が現場を回しているのも大きい。越後が換金作物と調味料に寄せ始めたのは、同盟の中での役割を自覚しているからだろう。
羅津は、こゆき・つらら・みぞれが商館を動かし始めた。銀と黒テンが増えている。あそこは“売って勝つ”現場だ。蝦夷は“取って守る”現場で、越後は“作って増やす”現場。全部違うが、同じ財布に繋がっている。
狂犬銭は今日は発行量を抑えた。
現場が熱い日は、銭も熱くなる。熱くなりすぎると、人が焦げる。
私は金融担当として、焦がさず回す。回り続ければ、国は強くなる。




