第211話 湯ノ川と獅子丸、熱田は今日も沸騰中
西暦1555年7月7日(天文24年・文月七日ごろ/盛夏)
蝦夷の空は高い。
函館の東、川沿いに白い湯気が立ちのぼり、硫黄の匂いが鼻をくすぐる。
狂犬お市様は、その湯だまりを見つけた瞬間、迷いなく言い切った。
「ここは――湯ノ川じゃ」
松平元康が、目を輝かせて近寄る。
「姫様、それ、命名ですか!」
「そうじゃ。湯が出る、川がある。湯ノ川。簡潔」
酒井忠次が苦笑する。
「……相変わらず、決裁が速い」
その足元で、ころころと転がるものが三つ。
蝦夷狼の赤子、雄一匹に雌二匹。ついこの前まで山の子狼だったのが、今や完全に“狂犬家臣”の顔をしている。
慶次が狼を指差して、鼻で笑った。
「姫様、そいつら、もう家臣扱いなんすね」
「当然じゃ。家臣は清潔第一」
「狼に清潔を教える戦国姫、初めて見ましたわ」
お市様は、懐から白い固形を取り出す。
泡立つ石鹸――狂犬堂の定番品だ。
忠次が、ふと気づいて言う。
「それ、鳴海の診療所でも使ってるやつですね」
お市様は当然の顔で頷く。
「うむ。狂犬堂は化粧品屋じゃ。石鹸は八年前から作っておる。新しさではなく、質で勝負じゃ」
元康が感心して、手を打つ。
「八年……! 継続は力……!」
「急に真面目になるな」
湯だまりに狼を入れると、最初は暴れた。
だが、お市様が首根っこを掴んで落ち着かせ、石鹸を泡立てて背を撫でると、三匹とも数息で静かになった。
慶次が吹き出す。
「……溶けてますよ。狼」
「湯は命をほどく。狼も例外ではない」
「姫様の理屈、時々こわい」
狼の毛並みは、湯気の中でつやりと光る。
三匹とも目を細めて、もう動かない。
利家が腕を組んで唸った。
「姫様、狼が風呂好きになるのは……」
「家風じゃ」
「家風で済む話じゃない気が!」
元康はもう未来を見ている。
「忠次! ここに湯治場を作りましょう! 冬も人が来ます! 街道も作って、宿も作って――」
忠次が即座に突っ込む。
「順番だ、殿。まずは道と木材だ」
「夢は止めません!」
「止めぬ。制御するだけだ」
お市様は湯ノ川を見回し、静かに言った。
「ここは戦で取る場所ではない。人が集まり、休み、働く。そういう拠点じゃ。蝦夷は広い。焦るな、しかし遅れるな」
「……はい!」
元康と忠次が声を揃えた。
湯ノ川。
函館の港とは別の“生きた札”が、今日、蝦夷の地図に増えた。
その頃、尾張・鳴海。
診療所は今日も戦場だった。血は流れないが、人が途切れない。
「八千代! 次、腹痛!」
「太助! 手ぇ洗え! 石鹸は八年前からある! 使え!」
「はいっ!」
「産婆ばあ様隊! こっち、産後の血の気!」
「わしらに任せろ! 若いのは走れ!」
裏庭では巨大な鍋が煮えたぎる。ちゃんこ鍋。
にんにくを豪快にぶち込み、味噌で整え、湯気が立つたびに人が元気になっていく気がする。
太助が泣きそうな顔で呟いた。
「医術って……忙しいですね……」
八千代が即答する。
「忙しいのが“生きてる”証拠だよ。ほら次!」
産婆ばあ様が、鍋を指で示す。
「食え。倒れたら診る側が消える」
「はいぃ……!」
狂犬堂の留守を守る鳴海は、今日も全力だった。
そして、尾張・熱田。
ここは別種の熱気で沸騰している。五か国同盟の共通銭――狂犬銭が巡り、商館街は昼も夜も眠らない。
そのど真ん中に、新しい暖簾が揺れていた。
北条家 海鮮居酒屋「獅子丸」
「いらっしゃいませ!」
早川殿の声が通る。
厨房からは焼き魚の香り、磯の匂い、醤油の湯気。酒の瓶が鳴り、客の笑い声が跳ねる。
早川殿は客席を一瞥し、帳場へ、厨房へ、また客席へ。
目が三つあるかのように動き回る。
「刺身は回転! 焼きは待たせるな! 最後は獅子饅頭で締める!」
女中が目を丸くする。
「えっ、酒のあとに甘味ですか?」
早川殿がニヤリ。
「だから、もう一杯出るんだよ。わかる?」
そこへ、瑞渓院が腕を組み、店先の熱田を見渡した。
人の流れ、荷の山、銭の音。
目が燃える。
「……熱田を制する者は、日本を制す」
早川殿が即座に突っ込む。
「母上、声が大きいです!」
「聞かせるのよ」
「ここ、居酒屋です!」
瑞渓院は微動だにしない。
「商いも戦よ。勝った者が、正義」
「混ぜるな危険!」
だが成果は即日で出た。
獅子丸は満席、獅子饅頭は売り切れ、海鮮は追加発注。
北条商館は、熱田で根を張り始めた。
「早川」
瑞渓院が低く言う。
「はい」
「次は、問屋との顔繋ぎだ。港の流れも抑える」
「……母上、ほんとに制しに来てますよね」
「当たり前だ」
熱田北条商館。
今日が、その始まりだった。
桃の日記(狂犬記)
西暦1555年7月7日(天文24年・文月七日)
今日は報告が多い。
蝦夷では、お市様が温泉地を見つけて「湯ノ川」と名付けた。
狼の赤子三匹を湯に入れて、うちの石鹸で洗ったらしい。
石鹸は新商品ではない。狂犬堂は化粧品屋だから、八年前からの定番だ。そういう“当たり前”が遠い土地で役に立つのは、少し誇らしい。
鳴海の診療所は相変わらず走っている。八千代が強い。太助は伸びしろ。産婆ばあ様隊は最強。
熱田は北条商館が立ち上がった。
早川殿は現場の回しが上手い。瑞渓院殿は気合いが戦国。獅子丸と獅子饅頭は、酒の回転を上げる設計になっている。商いは理屈どおり動く。
狂犬銭は今日は発行を抑えた。流通は熱いが、熱いまま放置すると火事になる。
“回す”のと“燃やす”は違う。私は金融担当として、今日も胃が痛い。だけど回す。
――桃




