第210話 獅子は引かぬ、だが熱田は引く
西暦1555年7月6日(だいたい天文24年・文月6日/夏)
尾張国・熱田 今川館/狂犬堂 商館街
蝦夷では――
函館の東、川沿いの温泉地で。
「温泉街を作るぞ!」
松平元康が目を輝かせ、酒井忠次が腕を組み、そして狂犬お市様が満面の笑みで頷く。
北の大地極楽計画。
発案はお市様、賛同は元康、実務は忠次。
蝦夷にいる者だけが「勝ち組」みたいに楽しんでいる。
その頃――熱田鳴海の留守番組は、目が回るほど必死に回していた。
そして今日。
北条氏康が、カラベルで熱田に来た。
潮の匂いより先に来たのは、人の匂いだった。
港の桟橋から商館街へ向かう道。
荷車、荷車、荷車。
背に俵、肩に樽、腕に反物、頭に籠。
そして声、声、声。
「狂犬堂!こっち空いたぞ!」
「釣り銭は狂犬銭で頼む!」
「堺の問屋はあっちだ、南蛮は裏通りだ!」
「おい、胡椒の香り、ここまで飛んでるぞ!」
氏康は、思わず立ち止まった。
「……小田原どころではないな」
その一言が、やけに真面目で、やけに弱々しい。
早川殿が即座に突っ込む。
「お父上、何を今さら。ここ、狂犬堂の心臓ですよ?」
瑞渓院が口元を隠して笑う。
「心臓どころか、動脈も静脈も全部ね。血が飛ぶように流れているわ」
氏康は、商人たちの手元を見た。
狂犬銭が、まるで札束のように――いや、札束より速く動く。
金銀は見えない。
見えるのは、銭と、品と、契約と、胃が痛くなる速さの回転。
「……獅子は引かぬ、媚びぬ、顧みぬ」
氏康が、どこか遠い目をして呟く。
早川殿が、間髪入れずに刺す。
「顧みてください。まず現実を」
瑞渓院も乗った。
「あなた、獅子じゃなくて今“迷子の猫”みたいな顔してますよ」
「……猫ではない」
「では“熱田に飲まれた獅子”」
「言い方!」
周囲の商人たちが、北条の一行に気づき、ざわつく。
「北条様だ!」
「小田原の獅子だぞ!」
「獅子が来たなら、獅子饅頭が売れるぞ!」
「おい、勝手に看板作れ!」
氏康の眉がピクリ。
「……今、何と言った」
早川殿が、冷たく笑った。
「父上、聞いてませんでした?昨日、奥様方の女子会で決まったんです」
瑞渓院が胸を張る。
「相模伊豆は――
居酒屋『獅子の舞』、甘味『獅子饅頭』。ね?」
「ね、じゃない!」
「あなたが渋って朱印を出さないから、私が出しました」
「出したのか……」
「出しました」
早川殿が追い打ち。
「父上、もう遅いです。獅子は引けません」
氏康は、商館街の一角に目をやった。
確かに、見覚えのない暖簾がかかっている。
まだ仮の布だが、赤い糸で“獅子”と刺繍されていた。
そして、その隣に――
「……“獅子饅頭”」
「そう。あなたの威厳で売るのよ」
「威厳が饅頭になるのか」
「なります。熱田では」
氏康が、口を開けて閉じた。
言い返す言葉が、熱田の熱気に蒸発した。
そのとき、問屋街の方から、また別の歓声。
「堺の大口が来たぞ!」
「南蛮の胡椒だ!」
「絹だ!綿だ!麻だ!」
氏康は、ようやく腹を括った顔になる。
獅子の顔だ。少しだけ。
「……よい。北条も港を持った。ならば、港を使う」
早川殿が、満足そうに頷く。
「やっと“獅子の目”になりましたね」
瑞渓院が、楽しそうに言った。
「あなた。媚びなくていい。引かなくていい。顧みるだけでいいわ」
「……顧みる」
氏康が苦笑する。
「この熱田を顧みたら、もう戻れぬな」
「戻らなくていいです」
「え?」
「だって、ここ――儲かりますから」
早川殿の目が銭になっていた。
氏康は天を仰いだ。
獅子は吼えたい。
だが熱田の空は、商人の声で埋まっている。
「狂犬……」
つい本音が漏れる。
瑞渓院が即座に拾った。
「あなた、惚れました?」
「惚れてない!」
早川殿がにやり。
「父上、“狂犬に惚れた獅子”で新商品いけますよ」
「いけるか!!」
――熱田は今日も、狂気と熱気と商いで回っていた。
そして北条の獅子は、引かぬまま、しっかり飲まれていった。
桃の日記(狂犬記)
西暦1555年7月6日(だいたい天文24年・文月6日)
今日、北条氏康殿が熱田へ来た。
港に降りた瞬間から顔が固かった。人と銭の流れが想像以上だったのだろう。
狂犬銭は、増やさず、回している。
他国銭は回収し、溶かして統一し、釣り銭で狂犬銭を返す。
それだけで市場は“狂犬銭しか使えない形”になる。
金銀は市に出ない。蔵に集まる。ここが肝だ。
氏康殿の奥方と早川殿は、相変わらず強い。
獅子の舞、獅子饅頭――もう看板が出ていた。
旦那が渋ると、奥方が進める。五か国はそう回り始めた。
私は明日、回収銭の量と、商館街の流通速度をもう一度見直す。
熱田は“熱すぎる”。
熱すぎる時は、発行ではなく、供給――米と塩と布で冷ます。




