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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第160話 甲斐での口説き文句は、胃薬と一緒に


西暦1555年3月23日(天文24年・弥生の頃/春)

甲斐の朝は、尾張より冷たい。

山の影が長く、風が乾いていて、息を吸うと胸の奥がきゅっと縮む。

躑躅ヶ崎館――武田の館の門前。

木下藤吉郎は馬から降りた瞬間、まず腹を押さえた。

「……寒い。胃が、寒い」

隣の蜂須賀小六が笑う。

「お前の胃は、冬と戦いすぎだわ。戦国で一番酷使されとる」

「わしは胃で天下取るんちゃう……」

「なら胃に優しい天下にせえ。狂犬様みたいにな」

「なら、なおさら胃が死ぬわ!」

2人の背には護衛がいる。

だが、今日は戦ではない。

今日は“口で殴る日”である。

懐には書状が5通。

狂犬お市様、織田信長公、今川義元公、今川氏真公、そして雪斎殿。

差出人の並びが、もう胃に悪い。敵味方の帳簿がひっくり返っている。

――4月、駿府・今川館に参集せよ。

――護衛兵は200まで。

――奥方同伴。狂犬堂の仕様書を公開するゆえ、理解できる奥方で来てほしい。

「奥方同伴」

藤吉郎はその文字を心の中で10回読み直した。

「……どうしてこういう無茶を、朱印で言い切れるんだ、あの姫様……」

「狂犬様はな、言い切るのが仕事なんや」

「それ政治か?」

「政治や。あと娯楽や」

門が開き、武田の兵が無言で案内する。

甲冑は地味だが、歩幅と視線が揃っている。

“強い軍”というより、“崩れない組織”の匂いがした。

(……これが武田か。騎馬軍団の噂ばっかり広がっとるが、実際は兵站と規律や)

藤吉郎は舌の奥でひとり納得した。

戦国の強さは、派手さより「折れない骨」にある。

「呼んだのはお前らか、狂犬か」

広間。

上座に武田晴信。

その横に、武田の“家”そのものと言われる奥方――三条の方。

一段下に、理詰めの副将――武田信繁。

晴信は、目だけで藤吉郎を測った。

刃物みたいな視線だ。

「……木下藤吉郎」

「はっ」

「呼んだのはお前らか。狂犬か」

「両方でございます。むしろ、狂犬様が8割でございます」

小六が横で頷く。

「残り2割は胃やな」

藤吉郎が肘で小六を突く。

「黙れ!」

晴信が鼻で笑った。

「狂犬が、駿府に集まれだと?」

「はい。4月、駿府今川館にて」

「今川館……義元も出るのか」

「出ます。氏真公も。雪斎殿も」

「……敵の名簿だな」

「ええ、胃が痛い名簿です」

信繁が静かに口を挟む。

「護衛200まで、というのは?」

「各家200まで。城下の治安、兵站、宿割り、全部ひっくるめて狂犬堂が段取りを出します」

「段取りの仕様書を公開する、と書いてあるな」

「はい。米の買い上げ、塩、鉄、硝石、船材、医療、治安、奉行所の仕組みまで。出せるものは全部」

三条の方が、扇を閉じた。

「……奥方同伴、とあるのは?」

藤吉郎は腹を括った。

ここは誤魔化すと死ぬ。

「狂犬様が申します。仕様書は“生活の帳簿”であり、“台所の論理”であり、“女と子が売られぬ仕組み”だから。理解できる者が必要だ、と」

「……女に、政治を見せると?」

「はい。見せます」

晴信が笑った。笑い方が危ない。

「面白い。狂犬は俺を笑いに来たか?」

「いえ。晴信公を“詰ませない”ためです」

空気が一段冷えた。

小六が、すっと前に出る。

ここからは小六の芸である。

「晴信公。詰みの話をされると武田は怒る。わかっとる。せやから、別の言い方をします」

「言ってみろ」

「今、甲斐の強さは“武力”で保っとる。でも、次の10年で勝ち続けるには“金と人”が要る。狂犬領は無税で人が集まる。女も子も売られん。働く口がある。医者がいる。奉行所が動く。そこに人が流れたら、国の形が変わる」

晴信の目が細くなる。

「……それで俺に、何をしろと?」

藤吉郎が続けた。

「4月の駿府で、5家連合会――武田、北条、織田、長尾、今川で、足利と三好に圧力をかけ、“国の形”を変える。戦でなく、合議で」

「合議だと?」

「はい。狂犬様は“戦の前に、腹を満たせ”と言います」

「腹を満たす?」

「兵も民も。腹が満たされれば、槍の値段が上がります。つまり、戦が高くなる。だから戦が減る」

信繁が、机を指で叩いた。

「……理屈は通る。だが、武田は今川と縁が深い。駿河は庭先だ。そこへ武田が出るのは――」

「わかっております」

藤吉郎は書状を差し出した。

「今川義元公は剃髪し、熱田で元義寺の住職となる段取りです。今川は“文化と芸能の家”として生き直す。武田と今川の関係は、争うより“使う”方が利が大きい」

晴信が、口の端を上げた。

「……義元が坊主?」

「はい」

「狂犬は人の首を取らずに、立場を取る。悪趣味だ」

小六がニヤっとする。

「晴信公の悪趣味も、まあまあですが」

藤吉郎が青ざめる。

「おい小六!いま刺されるぞ!」

三条の方が、ふっと笑った。

その笑みが、場を少しだけ柔らかくした。

「奥方同伴、というのは……女の目で見て、嘘を見抜け、ということね?」

藤吉郎が深く頭を下げる。

「はい。狂犬様は、男の言葉を信用しません」

「賢い」

三条の方は即答した。

「……そして、女と子が売られぬ、というのは本当?」

「本当です。無税の地にして、働き口を作り、換金作物は買い上げ、加工して銀に換える。人買いの商いより、よほど儲かる道を作る。そういう仕組みです」

「甲斐でも出来るの?」

「出来ます。水が足りなければ地山治水。畑には芋。麦。菜種。胡麻。乾燥調味料。医療と寺子屋。狂犬堂の仕様書には、工程まで書いてあります」

晴信は、少し黙った。

怒りではない。計算の沈黙だ。

(……この人、勝つために怒るんじゃない。勝つために黙る)

藤吉郎は、相手の強さをそこに見た。

条件

晴信が言った。

「行く」

藤吉郎の胃が一瞬で軽くなる。

だが、続きがあるのが武田だ。

「条件が3つ」

「はっ」

「1つ。武田の顔を潰すような“釣り”はするな。俺は玩具じゃない」

「はい」

「2つ。駿府での会談は、議長を立てろ。場を壊す者が出る」

「議長は……今川義元公と雪斎殿も含め、合議で」

「ふん。なら、信繁も連れて行く」

信繁が小さく頷いた。

「3つ」

晴信の目が、三条の方へ一瞬向く。

そして戻る。

「奥方は……三条が行く」

藤吉郎が思わず声を漏らす。

「……奥方ご本人が?」

「お前らが“理解できる奥方”と言った。なら、うちの帳簿はうちの女が見る」

三条の方が扇で口元を隠し、さらりと言った。

「ついでに、狂犬織が気になるの。あれ、肌触りが良すぎる」

小六が腹を抱えて笑った。

「奥方様、そこから入るの最高ですわ」

藤吉郎が小六の足を踏む。

「お前は黙れ!」

晴信が立ち上がり、最後に言う。

「……狂犬に伝えろ。俺は話を聞く。だが、武田は武田だ」

藤吉郎は深く頭を下げた。

「承りました。武田は武田。……そのまま伝えます」

小六が横で呟く。

「“武田じゃし”ってことやな」

藤吉郎が小声で返す。

「……それ、信虎殿の口癖や。混ぜるな」

春の甲斐に、風が吹いた。

駿府に向けて、戦ではなく“会議”の火種が整っていく。

そして藤吉郎の胃は、まだ生きていた。

桃の日記(作者:桃)

西暦1555年3月23日(天文24年・春)

今日は、甲斐の空気が冷たくて、藤吉郎の胃が一番頑張った日。

でも一番印象的だったのは、晴信公の沈黙。怒りじゃなく、計算の沈黙。あれは強い。

奥方同伴の条件が、逆に武田の矜持を立てたのも面白い。

三条の方が「帳簿は女が見る」と言った瞬間、場が決まった。

戦国は男の時代に見えて、実は女が“家”を握っている。

4月の駿府。

怪物が揃う。

胃薬の準備は、今から必須。

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