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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第156話 忠誠魂の碑


西暦1555年2月1日(天文24年 正月下旬)

尾張国・鳴海城下/朝

冬の朝は、音が少ない。

吐く息が白く、土は硬い。空だけがやけに澄んでいて――鳴海城下の片隅、その石碑の前だけ、人の気配が濃かった。

石碑に刻まれた文字は大きい。

『忠誠魂の碑』

猿渡川の戦い。

それ以前の戦、仕事、病、火事、事故――狂犬堂と狂犬家臣団の歩みの中で、命を落とした者たちの名が、ずらりと刻まれている。

宗派は入れない。経文もいらない。

「人として当たり前の行いだ」と、狂犬お市様が言って、水野とおだいが段取りを整えた。

だから今日は、慰霊祭だ。

鳴海城下の“生活”の延長で、命を弔う日。

名を読む朝

列は静かだった。

狂犬家臣団の者たち、狂犬堂の職員たち、奉行所の者たち、同心たち、荷運びの者、工房の者、畑の者――身分も役目も違うのに、今日は全員、同じ顔をしている。

「……ここ、父上」

「こっち、硝石方の……母上」

「鳴海同心の、与助……」

名前はただの文字じゃない。

読めば、声が蘇る。癖が蘇る。笑い方が蘇る。

慶次が、珍しく黙っていた。

利家も、腕を組んだまま動かない。

藤吉郎は、口を結んで、目だけが忙しい。泣くまいとして、目が忙しい。

松平元康は、背筋を伸ばしているのに、喉仏が上下していた。

酒井忠次は、元康の横で、何度も息を整えていた。

忍びのさくらたちも、今日は派手な冗談を言わない。

あやめは梅の枝を握る手に力が入って、指が白い。

せつなは、視線を落として、石碑の文字を一つずつ追っている。

八千代は、祭壇の布を直しながら、時々だけ唇を噛んだ。

「……姫様」

誰かが小さく呼んだ。

狂犬お市様の言葉

お市様は、今日は鎧を着ていない。

白衣でもない。

狂犬織の晴れ着の上に、黒い羽織を重ねている。派手ではないが、目が離せない。あの人が立つだけで、空気が整う。

景虎姉上も並ぶ。

白頭巾は今日はなく、藤の色の狂犬織。手には梅の小枝。

お市様が一歩前に出た。

「……宗教はいらん」

いきなり言い切るから、皆の肩が少しだけ揺れる。

“狂犬様らしい”という空気が一瞬だけ戻って、しかしすぐ消えた。

「けどな。人として、当たり前のことはやる」

石碑に刻まれた名を、お市様は見た。

一人ひとりを見るみたいに、ゆっくり。

「忘れたら、平和は腐る」

「平和になったら、きっと、人は忘れる」

「だから、ここに刻んだ」

声が強い。

でも、強さの下に、痛みが見える。

「この碑は、勝利の飾りじゃない」

「“代わりに死んだ者”の名じゃない」

「生きて、働いて、笑って、腹を減らして、誰かを守って――それでも、先に行った者の名じゃ」

誰かが鼻をすする音がした。

それが合図みたいに、あちこちで息が乱れる。

お市様は、手にした梅を掲げた。

「梅は寒さを割って咲く」

「……そなたらも、寒さを割って生きた」

声が少し、掠れた。

狂犬が掠れると、空気が刺さる。

「わらわは、忘れぬ」

「鳴海も、忘れぬ」

「後の世が忘れそうになったら――この碑が殴る」

忠次が、喉の奥で笑いそうになって、笑えなくて、顔を歪めた。

元康が小声で言う。

「姫様、最後の一言だけ狂犬だな……」

忠次が返す。

「殴る石碑って何だよ……」

藤吉郎が、鼻で笑って、すぐに目を伏せた。

笑うと泣くが来るから。

景虎姉上が、ぽつりと呟く。

「……殴られても、忘れるよりはいい」

お市様が横を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。

「姉上、それ、優しい顔で言うな」

姉妹の空気が、そこだけ柔らかくなった。

梅を供える

水野とおだいが先に進む。

段取りは完璧だが、2人とも目の奥が赤い。

「……こちらへ」

おだいが手を引くように案内し、皆が順に梅を供える。

黙って、手を合わせる者。

額を石碑に寄せる者。

名を指でなぞって、言葉が出なくなる者。

子どもを連れた職員が、子の手を石碑に触れさせた。

子どもは意味を分からない顔で、でも真似して頭を下げた。

それでいい。

分からなくても、形が残れば、いずれ意味が追いつく。

空砲

最後に、お市様が合図をした。

「……撃て」

火縄銃隊が列を組む。

今日は三段撃ちじゃない。見せる戦ではない。

弔いの音だ。

火蓋が落ち、乾いた破裂音が冬空に跳ねた。

ドン。

ドン。

ドン。

空に消える煙が、白い。

戦場の煙と違って、今日は誰も倒れない。

誰も叫ばない。

ただ胸の中だけが、ぐらぐらする。

元康が、唇を噛んだまま、拳を握る。

忠次は、目を閉じて、短く息を吐いた。

「……終わったな」

元康が言うと、忠次が首を振る。

「終わってない。始め直したんだ」

その言葉を、元康は飲み込むように頷いた。

お市様は、石碑の前に立ったまま、動かなかった。

風が羽織を揺らしても、動かなかった。

景虎姉上が、隣で梅を置き、そっと言う。

「……寒いな」

お市様が小さく笑った。

「冬だからな」

「違う。胸がだ」

「……そういう日だ」

姉妹の言葉は短い。

短いのに、全部入っている。

冬の空は青い。

鳴海は今日も動く。

だけどこの朝だけは、止まって、刻んで、前を向く。

桃の日記(作者:桃)

西暦1555年2月1日(天文24年 正月下旬)

忠誠魂の碑。

刻まれた名前を見たら、胸が痛くなった。

勝った戦のあとって、こういう痛みが残る。

姫様は「宗教はいらん」って言った。

でも、あれは祈りだったと思う。

言葉が乱暴でも、祈りの形はちゃんとあった。

「平和は忘れたら腐る」

この一言、怖いくらい真っ直ぐだった。

姫様が本気で“平和を作る側”に立ってるのが分かる。

空砲の音が、冬空に響いた。

誰も倒れないのに、心が倒れそうになった。

でも、倒れたら姫様に言われる。

「泣いてもいい。だが手は震えるな」って。

だから今日も書く。

この碑が、後の世を殴る前に、私が書いて残す。

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