第155話 診療所と、無給弟子募集
西暦1555年1月10日(天文24年 正月十日)
尾張国・鳴海 城下町診療所/朝
鳴海の朝は早い。
冬の空気はきゅっと冷え、息が白い。城下の通りには、まだ正月飾りが残っているのに――診療所の戸口だけは、もう人で詰まっていた。
「次の方どうぞー!」
声を張るのは八千代。手際がいい。息継ぎする暇もない。
診療所の奥。白衣を羽織った狂犬お市様が、袖をまくっていた。
ド派手な鎧も、凶悪なガントレットも、今日は隅に置いてある。今は医師の顔だ。
お市様の横には、伊賀のくのいち――さくら、あやめ、せつな。
さらに、薄い粥を運んだり、湯を替えたり、包帯を切ったり、走り回る。
「姫様、こっち!熱、まだ高い!」
さくらが叫ぶ。
「こっちは咳と血痰!」
あやめが指差す。
「こっちは手ぇ切ってる!魚屋の包丁、えげつない!」
せつなが、眉をひそめる。
お市様は一つずつ、目と手で流れるように捌く。
「熱は喉の腫れじゃ。生姜と蜂蜜、薄めて飲ませよ」
「血痰はまず座らせろ、背を撫でるな、息が乱れる」
「手の傷は水で洗え。酒で洗うな。しみるだけで治らん」
八千代が小声で感心する。
「姫様、ほんま……医者のときだけ、言葉が怖くない……」
せつなが即ツッコミ。
「八千代、それ、普段がどんだけ怖いねん」
診療所の外では、城下の噂好きがこそこそ話している。
「狂犬様が診療所で働いてるってよ」
「戦場じゃなくて町中で暴れるのか?」
「違う違う、薬を出すんだと」
「薬で殴るのか?」
「殴らんわ!」
尾張の城下は今日も平和で、ちょっとだけうるさい。
「弟子募集」の張り紙
そんな朝のどさくさに、入口の柱に新しい張り紙が増えた。
医師になりたい者、弟子募集
給料なし
まかない有
住み込み
文字が読める者、なお良し
根性ある者、もっと良し
泣く者、帰れ
最後の一文が、なんとも狂犬らしい。
それを見た瞬間、診療所の前がざわついた。
魚屋の親父が目を剥く。
「給料なし!? 姫様、それ弟子やなくて……」
八千代が被せる。
「修行です!」
「言い方ぁ!」
そこへ、門前の団子屋の若い衆が首を突っ込む。
「まかないって、何が出るんです?」
お市様が即答。
「薬草粥。体に良い」
「いや、腹に良いのは団子やろ!」
せつなが笑いを噛み殺す。
「そこは職業病や」
さくらが張り紙を覗き込んで、ぽそり。
「泣く者、帰れ……これ、忍びの募集みたいやな」
あやめが頷く。
「伊賀でも、ここまで書かん」
せつなが肩をすくめる。
「姫様は医者でも鬼や」
お市様は薬研で薬草をゴリゴリしながら、当然の顔で言った。
「医師は、泣いても人を救えねばならん」
「いや、泣いても救えるやろ」
「泣いて手が震えたら、縫合が曲がる」
「うわ、説得力だけで殴ってくる!」
八千代がこっそり、張り紙の端を整える。字も整っている。妙に達筆だ。
「姫様、これ……誰が書いたんです?」
「わらわ」
「……字、綺麗すぎません?」
お市様が平然。
「字は武器じゃ」
せつなが即座に。
「全部武器にする気か!」
町医者の戦場
診療台に座らされたのは、昨日まで酒で喉を焼いていたであろう男。顔が赤い。
「姫様ぁ……正月は、飲むもんで……」
「飲むのは勝手じゃが、吐くな」
「吐いてないです……」
「吐きそうな顔をしておる」
お市様は脈を取り、瞳孔を見て、舌の色を見た。
「辛いものを食い過ぎたな。火鍋に手を出したか」
男がぎくり。
「……手ぇ出しました」
「唐辛子は薬にもなるが、量を誤れば毒じゃ」
「姫様が入れたんやろ!」
「わらわは、加減した」
「加減ってなんや!」
八千代が遠くで笑いを噛み殺している。
そこへ、子どもの泣き声。
母親が抱いて駆け込む。
「姫様!熱が……!」
お市様の顔つきが変わる。やわらかく、しかし鋭い。
「大丈夫。ここにおいで」
さくらが布団を準備し、あやめが湯を運び、せつなが母親の背を支える。
お市様は子どもに視線を合わせる。声を落とす。
「怖いか。怖いよな。熱は、体が戦ってる印じゃ」
子どもは涙をこぼす。
「……いたい」
「痛いのは嫌じゃな。よし、痛くないやつからやる」
お市様は指先で額を撫で、薬草の匂いのする布を当てた。
その手つきは、戦場で槍を振るう姿とは別人だ。
母親が泣きそうな顔で、頭を下げる。
「ありがとうございます……」
お市様は首を振る。
「礼はいらん。子が泣かぬ国を作ると言ったのは、わらわじゃ」
せつなが小声で呟く。
「言うだけは、かっこええねん……」
さくらが同意。
「言うだけやないで。ほんまにやるから怖いねん」
景虎姉上、見学に来る
その頃、診療所の戸がすっと開いた。
藤の色の狂犬織――景虎姉上が、ふらりと入ってくる。
「ここ、うるさいって聞いた」
「うるさいぞ、姉上。鳴海は平和だと声がでかくなる」
景虎がくすっと笑う。
「戦のときより、ここが一番の修羅場だな」
診療所の外の男衆が、景虎の姿に目を奪われて固まる。
白頭巾は今日は無いが、空気が変わる。軍神の圧だ。
八千代が慌てて頭を下げる。
「景虎様、ようこそ……!」
景虎は手を振る。
「姉妹だ。固くなるな」
お市様が薬研を置いた。
「姉上、弟子募集の張り紙、見たか」
「見た。給料なしって書いてあった」
「修行じゃ」
「ブラックだな」
「鳴海は未来のためにブラックだ」
「言い訳が上手くなったな、お市」
さくらがぽそっと言う。
「姫様、姉上にだけは、ちょっと口が軽い」
あやめが頷く。
「ほんま姉妹」
せつなが笑う。
「この距離感、好きやけどな」
景虎は張り紙を指でトントンと叩いた。
「泣く者、帰れ。これは直せ」
「なぜじゃ」
「泣く者ほど、伸びる。泣きながら覚える」
お市様が目を細める。
「姉上、兵法の話を医術に混ぜるな」
「医も兵も、命が相手だ。混ざる」
お市様は一瞬、黙った。
それから、張り紙の端に小さく墨を入れる。
泣いてもよい
ただし手は震えるな
八千代が思わず拍手しそうになって、慌てて手を引っ込めた。
「姫様、言い方が……やっぱり姫様……」
「褒めておるのか、貶しておるのか」
「どっちもです!」
尾張小ネタ:診療所の裏の台所
診療所の裏には、小さな竈がある。
鳴海は変な町で、薬湯と一緒に“腹を満たす粥”が出てくる。狂犬堂が米を出し、商人衆が塩を出し、農家が野菜を持ち寄る。
「病人にまず温いもの。これ、尾張の底力」
景虎がそう言うと、お市様は少しだけ誇らしげに鼻を鳴らした。
「尾張はな、銭の回りが早い。人の回りも早い」
「早すぎて、弟子は無給だが」
「うるさい」
せつなが吹き出す。
「姉上、容赦ないな」
景虎は涼しい顔。
「姉だからな」
そして、誰が弟子に来るのか
午の刻を少し回った頃。
診療所の前に、1人の若者が立っていた。背は高くないが、目が真っ直ぐだ。
「……弟子に、なれますか」
八千代が驚いて、お市様を見る。
さくらたちも、一瞬静かになる。
お市様は、その若者を上から下まで見た。
手。爪。姿勢。目。息の落ち着き。
「名前は」
「……太助と申します」
「字は読めるか」
「読めます」
「血は平気か」
「……はい」
「泣くか」
「泣きません」
景虎が横から一言。
「泣いてもよい」
太助が一瞬詰まって、正直に言う。
「……泣くかもしれません」
お市様が、ふっと笑った。
「よい。泣いてもよい。だが、手は震えるな」
「はい!」
こうして、鳴海城下の診療所に、新しい火種――いや、新しい弟子が加わった。
戦がない年にすると言ったはずなのに。
狂犬の周りは、いつも何かが始まる。
桃の日記(作者:桃)
西暦1555年1月10日(天文24年 正月十日)
鳴海の診療所、朝から満員。
姫様が白衣だと、町の人が安心してるのが分かる。戦場の狂犬も本物だけど、医者の狂犬は、もっと本物。
張り紙がすごい。
弟子募集、給料なし、泣く者帰れ。
普通なら弟子が逃げるのに、鳴海は逆に人が集まる。なんでや。
景虎姉上が来て、張り紙を直した。
「泣いてもよい、ただし手は震えるな」
姉上の言葉は優しいのに、結果が厳しい。姉妹ってこういう感じなんだと思った。
それと、太助って子が来た。
泣くかもしれませんって言えたの、偉い。
鳴海は、泣いたあとに立てる場所がある。
姫様は、そこを作ろうとしてる。
……私は筆が震えた。
でも、手は震えるなって言われたから、今日は深呼吸して書く。




