第154話 評定の間、そしてジト目
西暦1555年1月9日(天文24年 正月九日)
尾張国・鳴海城 評定の間/昼
昼。評定の間。
畳はきっちり拭かれ、炭は赤く起き、外の冬空の白さが障子越しににじんでいる。
正月の浮かれは終わった――はずなのに、狂犬家臣団の空気は、なぜか胃薬の匂いがした。
「……来たな」
藤吉郎は襖の前で一度、深呼吸した。
そして、踏み込んだ瞬間。
――刺さる。
正面、座の端。
寧々が、藤吉郎を見ていた。
ジト目。
笑っていない。
まばたきも少ない。
藤吉郎は背中に冷たい汗を流した。
(やばい。間違いなく、やばい)
利家が横で小声で笑う。
「おい藤吉郎、正月ボケ、まだ治ってへんのか」
「黙れ利家、命がけや……」
慶次は肘で藤吉郎の脇をつついた。
「謝るなら今だぞ。評定始まったら姫様が全部持ってく」
「持ってくどころか、燃やすやろ……」
元康は真面目な顔をしているのに、口元だけ笑いを堪えている。
酒井忠次は、なぜか胸を張っている。海老すくい御免状が、まだ誇らしいらしい。
上座には、狂犬お市様。
そして、その隣に景虎姉上。
2人とも晴れ着のような狂犬織を着て、正月の名残をきちんと残しつつ、目は完全に仕事の目だった。
お市様は藤吉郎を見る。
「……藤吉郎。顔が死んでおるぞ」
「い、いえ!生きてます!」
「生きてる顔ではない」
景虎が静かに言う。
「胃だな」
「はい……」
「正直でよろしい」
寧々が、さらにジト目を深めた。
藤吉郎は、魂が半歩抜けた。
(今、謝るべきや。ここで謝るべきや。けど、皆の前で謝ったら……姫様が面白がる……)
案の定、お市様が口角を上げる。
「寧々、藤吉郎が何かやらかしたのか?」
「……はい」
「ほう」
「……はい」
「おもしろい」
「おもしろくありません」
寧々の即答が鋭い。
評定の間に、笑いが小さく漏れた。
お市様は手をひらりと振った。
「その件は後でよい。死にかけておる者は、まず仕事をせよ。生き返る」
「仕事で生き返る世界、初めて聞きました……」
藤吉郎のボヤきに、慶次が吹いた。
「ほれ見ろ。姫様の国はブラックじゃなくて、蘇生術が標準装備なんだよ」
「蘇生する前に殺すな!」
お市様は咳払いを1つ。空気が締まる。
「さて。今年の段取りを言う」
座の一同が背筋を伸ばす。
鳴海同心も、奉行衆も、商人衆も、伊賀の上忍も、目が真っ直ぐになる。
「まず、今川義元の剃髪式を行う」
「……」
「時期は4月まで。主催は、信長兄者、わらわ、景虎。3人でやる」
「剃髪式」という単語が、評定の間に重く落ちる。
戦を終わらせたあとに来る“仕上げ”の儀式だ。
敵将を殺さず、僧に戻し、力の使い道を変えさせる――狂犬流の勝ち方。
お市様は続ける。
「式次第は、今川家臣団と雪斎、そして寿圭尼にやらせる」
「寿圭尼まで……」と誰かが呟く。
「母がやるのが一番効く。本人の心に、な」
景虎が頷く。
「義元の“武”を止めるなら、“母”が一番だ」
「……軍神、そこ冷静に言うの、怖いです」と慶次。
お市様は平然と続ける。
「義元は剃髪の後、熱田へ移す。元義寺を寄進し、住職になる」
「元義寺……」奉行衆が筆を走らせる。
「そして氏真の邸宅の隣に置く。保護は、織田と狂犬が持つ」
「……人質、ではなく“保護”」と鳴海同心。
「そうだ。生かす。文化を生かす。今川の風流は国の財産じゃ」
ここで、阿国が小さく拍手した。
「さすが姫様。芸の価値が分かる殿方……じゃなくて、お方!」
「殿方言うな。わらわは姫様だ」
「はい姫様!姫様、火鍋の具、今年は何が増えるんです?」
「評定で鍋の話をするな」
笑いが起きる。だが、空気は軽くなりすぎない。
戦の後の内政は、冗談と同じくらい真剣さが要る。
お市様は扇を置いた。
「次」
「武田晴信、北条氏康、信長兄者、わらわ、景虎、そして今川義元と雪斎」
「この者たちを“議長”にして、5大名の連合会を作りたい」
評定の間が、ざわ、と波打った。
利家が思わず声を漏らす。
「5大名……ほんまに、集まるんですか」
「集めるんだよ」と景虎。
「逃げ道を無くして、座らせる」とお市様。
「言い方!」と慶次。
お市様は藤吉郎を見た。
「藤吉郎。蜂須賀小六」
「は、はい!」
「この連合会の地ならしは、お主らの仕事だ」
「……丸投げですか」
「丸投げだ。お主は転がすのが得意だろ」
「石みたいに言わないでください!」
元康も名指しされた。
「元康。お主も藤吉郎と話せ。4月以降に会議を開けるように、段取りを作れ」
「承知」
元康は即答した。目が燃えている。
無税の三河を走り回った男は、会議も走り回る気だ。
お市様は、畳に積まれた束を指した。
分厚い書物の山――紙が高いこの時代に、正気の量じゃない。
「農業指導書、商業交易指導書、漁業指導書、奉行治安書、無税の書、職人工業書」
「全部、書物にした。配る。読め」
「読めない者は?」と奉行。
「寺子屋に行け。無料だ」
「……姫様、それ、奉行の仕事が増えます」
「増やす。治安は“先手”が勝つ」
景虎が、うんうんと頷く。
「兵法だな」
「内政も兵法だよ、姉上」
2人の会話が、素で姉妹っぽい。
周りの者たちは、なぜかそこに少し安心する。
狂犬の凶悪さと、軍神の冷えた知性が、きちんと“人の温度”で繋がっているからだ。
お市様は、最後に言った。
「質問はあるか?」
――その瞬間。
空気が固まった。
誰もが思う。
(質問したら、仕事が増える)
沈黙。
慶次が手を上げかけて、利家に止められた。
「やめろ。増える」
「でも聞きたい」
「増える」
「……増えるか」
寧々が、すっと手を上げた。
藤吉郎の心臓が止まりかけた。
「姫様、質問ではなく……確認を」
「うむ」
寧々は、藤吉郎を見たまま言った。
「昨日、団子屋に来なかった者がいます」
「……」
「本日の評定後、本人より“説明”を受けたいと思います」
「……なるほど」とお市様。
そして、にやり。
「藤吉郎。生き返れ」
藤吉郎は、座布団に額をこすりつけた。
「はい……生き返ります……!」
評定の間は、笑いと、合掌と、胃痛で満ちた。
そして、仕事の正月が――本当に始まった。
桃の日記(作者:桃)
正月休みが終わって、鳴海城はいつもの鳴海城に戻った。
姫様は優しい。たぶん。きっと。知らんけど。
今日の評定、いちばん怖かったのは、戦の話じゃない。
寧々のジト目。
あれは火縄銃より刺さる。
藤吉郎は、戦場では強いのに、団子屋の約束には弱い。
姫様が「生き返れ」って言ったの、たぶん本音。
胃から復活して、働けって意味。
明日からまた忙しい。
でも、こういう国なら、みんな笑って働ける気がする。




