第153話 正月明けの違和感
西暦1555年1月9日(天文24年 正月九日)
尾張国・鳴海城下/朝
朝だった。
――静かすぎる。
鳴海城下、正月明けの朝。
太鼓も鳴らない。
伝令も走らない。
姫様の「今から評定じゃ!」の怒号もない。
藤吉郎は、布団の中で目を開けたまま、天井を見つめていた。
「……ほんまに、休みやったな」
声に出して言ってみる。
だが、誰も返事をしない。
一昨年の正月は、元旦から合戦。
去年の正月は、作戦発動。
今年は――
「何も、ない」
藤吉郎は、ゆっくりと上半身を起こした。
「……おかしいやろ」
警戒していた。
正月三が日が終わっても、
「そのまま5日休み」と朱印が回ってきても、
絶対に何かある、と。
だが――
本当に、なかった。
伝令なし。
招集なし。
姫様からの無茶ぶりなし。
胃が痛くなる案件、ゼロ。
「……」
藤吉郎は、布団を睨んだ。
「寝正月やったやんけ、わし」
気が抜けすぎて、逆に腹が立ってきた。
「釣り行けばよかった……」
ぽつり。
藤吉郎は、無類の魚釣り好きである。
川も、海も、池も好きだ。
戦より釣り。
策より餌。
そこへ、思い出したように、脳裏に浮かぶ弟の顔。
――木下小一郎。
「兄貴! 正月にでっかいスズキ釣れたで!」
「見て見て! 魚拓!」
正月、鳴海城下で自慢されたあの魚拓。
縁側いっぱいに広げられた、立派なスズキ。
「……くそ」
藤吉郎は歯ぎしりした。
「魚釣り名人ぶりやがって……」
「あいつ、絶対わしに見せるためだけに釣り行ったやろ」
布団の上で、悔しさを噛みしめる。
「釣り行けばよかった……」
「せめて初釣り……」
だが、少し間を置いて、ふうっと息を吐いた。
「……まぁ」
「正直、疲れとったんも事実やな」
猿渡川の戦。
その後の調略。
正月三日間の地獄の宴会。
胃も、頭も、心も、休みを欲していた。
「こうやって、何もせんと寝る正月も……」
「悪く、なかったかもしれん」
――その瞬間。
はっとした。
「……あれ?」
藤吉郎は、勢いよく顔を上げた。
「団子屋……」
頭の中で、記憶が一気に巻き戻る。
「寧々と……約束……」
鳴海城下の団子屋。
正月明け、落ち着いたら行こう、と。
人目の少ない時間に、話をしよう、と。
「……昨日や」
声が、かすれた。
「昨日が、約束の日やった……」
胃が、きゅっと縮む。
「……やってもうた」
完全に、忘れていた。
寝正月。
気が抜けすぎた。
「……あかん」
「これは、あかんやつや」
藤吉郎は、額に手を当てた。
「寧々、怒っとるやろな……」
「いや、怒る前に、呆れとるやろ……」
寧々の顔が浮かぶ。
腕を組んで、静かに睨む顔。
声を荒げない分、余計に怖い。
「今日の昼……」
「新年最初の評定……」
逃げ場は、ない。
「どう謝る……?」
藤吉郎は、真剣に悩み始めた。
「正直に言うか?」
「寝正月で忘れとったって?」
「それは、あかん……」
布団の上で、頭を抱える。
「団子、奢る?」
「いや、団子だけでは……」
「狂犬堂の新作羊羹?」
「いや、それは仕事や……」
胃が、また痛くなってきた。
「……正月明け一発目の評定で」
「姫様の前で、寧々に睨まれるんか……」
想像しただけで、背筋が冷える。
だが。
「……逃げたら、あかん」
藤吉郎は、ゆっくりと立ち上がった。
「戦より、謝罪の方が難しいんやな……」
苦笑しながら、身支度を始める。
外では、鳴海の町が、穏やかに動き始めていた。
無税の町。
笑顔の多い朝。
その中で、藤吉郎の胃だけが、
正月前よりも、きりきりと働いていた。
桃の日記(作者:桃)
正月休み、本当にあった。
それが一番の事件。
藤吉郎さん、戦場では胆力あるのに、
恋と約束には、びっくりするほど弱い。
団子屋の約束を忘れる男、
それを評定で思い出す男。
今日の昼、鳴海城は静か。
でも、藤吉郎さんの胃だけは、
また戦に入っている。




