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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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155/293

第153話 正月明けの違和感

西暦1555年1月9日(天文24年 正月九日)

尾張国・鳴海城下/朝

朝だった。

――静かすぎる。

鳴海城下、正月明けの朝。

太鼓も鳴らない。

伝令も走らない。

姫様の「今から評定じゃ!」の怒号もない。

藤吉郎は、布団の中で目を開けたまま、天井を見つめていた。

「……ほんまに、休みやったな」

声に出して言ってみる。

だが、誰も返事をしない。

一昨年の正月は、元旦から合戦。

去年の正月は、作戦発動。

今年は――

「何も、ない」

藤吉郎は、ゆっくりと上半身を起こした。

「……おかしいやろ」

警戒していた。

正月三が日が終わっても、

「そのまま5日休み」と朱印が回ってきても、

絶対に何かある、と。

だが――

本当に、なかった。

伝令なし。

招集なし。

姫様からの無茶ぶりなし。

胃が痛くなる案件、ゼロ。

「……」

藤吉郎は、布団を睨んだ。

「寝正月やったやんけ、わし」

気が抜けすぎて、逆に腹が立ってきた。

「釣り行けばよかった……」

ぽつり。

藤吉郎は、無類の魚釣り好きである。

川も、海も、池も好きだ。

戦より釣り。

策より餌。

そこへ、思い出したように、脳裏に浮かぶ弟の顔。

――木下小一郎。

「兄貴! 正月にでっかいスズキ釣れたで!」

「見て見て! 魚拓!」

正月、鳴海城下で自慢されたあの魚拓。

縁側いっぱいに広げられた、立派なスズキ。

「……くそ」

藤吉郎は歯ぎしりした。

「魚釣り名人ぶりやがって……」

「あいつ、絶対わしに見せるためだけに釣り行ったやろ」

布団の上で、悔しさを噛みしめる。

「釣り行けばよかった……」

「せめて初釣り……」

だが、少し間を置いて、ふうっと息を吐いた。

「……まぁ」

「正直、疲れとったんも事実やな」

猿渡川の戦。

その後の調略。

正月三日間の地獄の宴会。

胃も、頭も、心も、休みを欲していた。

「こうやって、何もせんと寝る正月も……」

「悪く、なかったかもしれん」

――その瞬間。

はっとした。

「……あれ?」

藤吉郎は、勢いよく顔を上げた。

「団子屋……」

頭の中で、記憶が一気に巻き戻る。

「寧々と……約束……」

鳴海城下の団子屋。

正月明け、落ち着いたら行こう、と。

人目の少ない時間に、話をしよう、と。

「……昨日や」

声が、かすれた。

「昨日が、約束の日やった……」

胃が、きゅっと縮む。

「……やってもうた」

完全に、忘れていた。

寝正月。

気が抜けすぎた。

「……あかん」

「これは、あかんやつや」

藤吉郎は、額に手を当てた。

「寧々、怒っとるやろな……」

「いや、怒る前に、呆れとるやろ……」

寧々の顔が浮かぶ。

腕を組んで、静かに睨む顔。

声を荒げない分、余計に怖い。

「今日の昼……」

「新年最初の評定……」

逃げ場は、ない。

「どう謝る……?」

藤吉郎は、真剣に悩み始めた。

「正直に言うか?」

「寝正月で忘れとったって?」

「それは、あかん……」

布団の上で、頭を抱える。

「団子、奢る?」

「いや、団子だけでは……」

「狂犬堂の新作羊羹?」

「いや、それは仕事や……」

胃が、また痛くなってきた。

「……正月明け一発目の評定で」

「姫様の前で、寧々に睨まれるんか……」

想像しただけで、背筋が冷える。

だが。

「……逃げたら、あかん」

藤吉郎は、ゆっくりと立ち上がった。

「戦より、謝罪の方が難しいんやな……」

苦笑しながら、身支度を始める。

外では、鳴海の町が、穏やかに動き始めていた。

無税の町。

笑顔の多い朝。

その中で、藤吉郎の胃だけが、

正月前よりも、きりきりと働いていた。

桃の日記(作者:桃)

正月休み、本当にあった。

それが一番の事件。

藤吉郎さん、戦場では胆力あるのに、

恋と約束には、びっくりするほど弱い。

団子屋の約束を忘れる男、

それを評定で思い出す男。

今日の昼、鳴海城は静か。

でも、藤吉郎さんの胃だけは、

また戦に入っている。

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