第152話 海老すくい御免状
西暦1555年1月3日(天文24年 正月三日)
尾張国・鳴海城 評定の間(大広間)/夕方
夕方の鳴海城は、冬の空気がきりっと冷たい。
なのに――城の中だけ、暑い。
理由はひとつ。
正月3日間の大宴会、最終日。
畳の上には、酒樽、膳、山盛りの肴。
伊勢湾の海の幸に、狂犬堂の甘味。
火鍋の湯気が天井にのぼり、梁がうっすら霞むほどだ。
そして、宴会の真ん中にいる家臣団は――
「……もう、酒が水みたいに見える」
藤吉郎が死んだ目で言った。
「逆や、藤吉郎。水が酒みたいに見えるんや」
利家が肩を叩く。
「それ、末期やないか」
慶次が笑って笛を鳴らす。
「うちら、戦より宴会で死ぬんちゃう?」
まつがぼそり。
「戦は槍で死ぬ。宴会は肝で死ぬ」
桃が筆を握りしめながら真顔で言って、
寧々が即座に突っ込んだ。
「桃、あんた、正月から格言みたいに言うな!」
ここは尾張、鳴海城。
狂犬お市様の城。
そして、狂犬堂の本拠。
鳴海の町は今、正月の賑わいでいっぱいだ。
熱田からの参詣帰りの者、知多からの海産物を売りに来た者、
狂犬堂の屋台で甘酒(の代わりにエール)を飲む者。
外は平和。
だが城内は、別の意味で修羅場。
――と、その時。
「静まれい」
声が落ちると、場がすっと静かになった。
上座に、狂犬お市様が立つ。
相変わらず、目が冴えている。
「……あの方、寝てるんですよね?」
元康が小声で忠次に聞く。
「寝ておられるはずです」
忠次が小声で返す。
「はず、って何だ」
元康が震えた。
景虎姉上は隣で、湯気の向こうから静かに笑っている。
顔色ひとつ変えない。
この姉上は、戦でも宴会でも、芯が折れない。軍神。
お市様は周囲を見回し、にやりと笑った。
「よいか。今日は最終日じゃ」
「この宴が終われば――休みじゃ」
一瞬、空気が止まる。
「……ほんとに?」
誰かが言った。
「朱印は?」
別の誰かが聞いた。
「朱印はあるか?」
さらに誰かが念押しした。
狂犬家臣団、正月から不信が厚い。
お市様は鼻で笑った。
「朱印は年末に回した」
「疑うなら、今ここでまた押すぞ?」
「いや、それはそれで怖いです!」
藤吉郎が即答した。胃が痛い顔で。
「だが、褒美が先じゃ」
褒美。
その単語だけで、場の背筋が伸びた。
戦国の世、褒美は命綱。
家臣団だけでなく、家族も生きる。
お市様は言った。
「お主らの家族に、お年玉じゃ」
「1人につき――100貫」
どん。
空気が落ちた。
「……ひゃく?」
「百……貫?」
「桁が……」
「いや、桁が狂犬様……」
利家が数を頭の中で弾いて固まっている。
慶次は笑いながらも、目が本気だ。
藤吉郎は口をぱくぱくさせて、言葉が出ない。
寧々が小さく震えながら言った。
「……姫様、これ、ほんまに、家臣団……全員に?」
「当たり前じゃ」
お市様は平然。
「金蔵に眠らせても、役に立たぬ」
「廻してなんぼぞ」
そして、きっぱり。
「配り役は――元康と忠次」
元康がぎょっとした。
「わ、わし!?」
「うむ」
「なぜわし!?」
「真面目だからじゃ」
「理由が雑すぎる!」
忠次が横で、静かに頭を下げた。
「承りました」
言い方は落ち着いてるが、額に汗が浮いている。
この量の金を動かすのは、戦と同じくらい怖い。
元康は、包みを受け取った瞬間、重みで手が沈んだ。
「……重い」
「そりゃ重いわ」
利家が言う。
「姫様、これだけ配ったら、狂犬堂の金蔵空になりません?」
藤吉郎が泣きそうに言うと、
お市様は、さらっと返した。
「空になったら、また稼ぐ」
「狂犬堂は、働くところが多い」
「稼げる者が稼げばよい」
――この女。
戦国なのに、経済で殴ってくる。
景虎姉上が、ふっと息を吐く。
「相変わらず、派手なことするなあ」
姫妹の砕けた言い方だ。
場が少し柔らぐ。
お市様は、景虎姉上の顔を見て、子どもみたいに笑った。
「姉上も、越後で配れ」
「民が笑えば、国は強いぞ」
「……越後は雪が深い」
「雪の上で配れ」
「鬼か」
姉妹のやり取りに、どっと笑いが起こる。
――だが。
お市様は、ここで急に話を変えた。
「そうだ、忠次」
忠次がぴしっと背筋を伸ばす。
「お主、宴会芸があったな?」
「……え?」
忠次の目が泳ぐ。
元康が小声で言った。
「忠次、逃げろ」
「逃げられませぬ」
慶次がにやにやしながら囃す。
「忠次殿、芸あるのか!」
「いや、ない……いや、ある……いや、やりたくない!」
お市様がにやり。
「海老すくいじゃ」
「やれ」
忠次は固まった。
「ひ、姫様……正月三日、天下の大宴会で……海老すくいを……?」
「うむ」
「なぜ……」
「面白いからじゃ」
理由、最強。
景虎姉上が笑いを堪える顔をしている。
藤吉郎は胃を押さえながらも、興味で目が輝いている。
利家とまつは、もう手を叩いて待っている。
「忠次!」
元康が肩を掴む。
「今夜は戦だ」
「……はい」
忠次は、覚悟を決めた武士の顔になった。
――そこへ。
じゃんっ、と三味線の一音。
「姫様!?」
「自分で弾くんかい!」
寧々が叫ぶ。
お市様が三味線を構え、豪快に弾き始めた。
津軽三味線みたいに、鳴海の広間に響く。
「ほれ忠次!」
「すくえ!」
「海老を!」
「心で!」
「心で!? 海老は手でございます!」
忠次は腰を落とし、両手を構え、
見えない海老をすくい始めた。
「……こうですか!」
「違う!」
お市様が容赦ない。
「腰が高い!」
「すくう動作が小さい!」
「海老が逃げる!」
「海老はおりません!」
「いると思え!」
「思えません!」
景虎姉上がついに吹き出した。
「ははっ……忠次、顔が真剣すぎる」
「姉上まで笑うな!」
慶次が笛を入れ、
阿国が勝手に踊り出し、
まつが囃し、
利家が合いの手を入れる。
「ほい! ほい!」
「海老だ! 海老だ!」
「忠次、逃がすな!」
「逃がすも何も、最初からいない!」
広間は大爆笑。
戦の勝利より、今の方が統率が取れている気がする。
お市様は、弾きながら忠次の横に立ち、
一緒に海老すくいを踊り始めた。
「姫様もやるんかい!」
「ずるい!」
「主君が全力で宴会芸やるな!」
だが、その姿が――妙に嬉しそうで。
元康は、思わず見入った。
この女は、戦の鬼で、医師で、政治家で、商人で。
でも、こういう時は、家臣団の中心で笑わせる。
「……姫様」
元康がぽつり。
お市様が振り向く。
「なんじゃ」
「来年は、本当に……戦を起こさぬのですか」
少しだけ真面目な声。
一瞬、三味線が止まる。
場も静かになる。
お市様は、忠次の海老すくいポーズのまま言った。
「起こさん」
「こちらからは、な」
景虎姉上が頷く。
「内政の年にする」
「越後も、北へ動く」
「交易が回れば、戦は減る」
お市様は、少しだけ目を細めた。
「女が売られぬ土地」
「子が泣かぬ土地」
「そのための無税じゃ」
場が、しんとする。
藤吉郎が、小さく息を吐いた。
「……姫様、ほんま、わけわからんのに」
「たまに、こういうこと言うから、余計にわけわからん」
「褒めておるのか?」
お市様が聞く。
「褒めてます!」
藤吉郎が即答。
胃は痛いが、顔は少し笑っていた。
その空気を、ぶち壊すように――
お市様がぱん、と手を叩いた。
「よし!」
「忠次!」
「はい!」
忠次が反射で返事をする。
「今日からお主、海老すくい御免状じゃ!」
「御免状!?」
「宴会芸に御免状!?」
「戦国史に残らんやつ!」
お市様は、早い。
本当に早い。
懐から紙を出し、墨を走らせ、朱印を押した。
――すっ。
忠次の前に差し出される。
「ほれ」
「正式な朱印状じゃ」
「これで、いつでもどこでも海老すくいを踊れる」
忠次は受け取って、震えながら読んだ。
「……『鳴海城家臣 酒井忠次、海老すくい之儀、以後一切咎めなし』」
「……本当に書いてある……」
元康が腹を抱えた。
「忠次!」
「お前、武功より先に芸で名が立つぞ!」
慶次が肩を叩く。
「いやぁ、天下人の家臣って感じするな!」
「どんな感じだ!」
寧々が呆れ顔で笑う。
「この城、朱印の使い方が雑すぎる」
「雑でええ」
お市様が堂々と言う。
「朱印は、民と家臣を笑わせるためにある」
「違う!」
全員が突っ込んだ。
笑い声が、鳴海城の夜に広がっていく。
その夜、家臣団は、心から笑った。
3日間の酒と料理の重さより、
この一瞬の笑いが、明日を生かす。
――そして、誰もが思った。
休み、ほんとに来い。
桃の日記(作者:桃)
正月三日、最終宴会。
生きてる。みんな生きてる。たぶん。
姫様が100貫配った。意味がわからない。
でも、家族が泣かない。そういう金の使い方は、強い。
忠次さん、海老すくい御免状をもらった。
戦国で、朱印状がこんな用途に使われるとは思わなかった。
笑いすぎて腹が痛い。
でも、こういう城だから、ついていける気がする。
明日から休み。
朱印がある。
……信じる。信じたい。




