第150話 無礼講 祝言まだか
西暦1555年1月1日(天文24年 正月元旦)
尾張国・鳴海城 大広間(評定の間を開放)
宴会である。
戦ではない。評定でもない。謀でもない。――たぶん。
ただし、鳴海の宴会は油断すると命を持っていかれる。
胃袋か、心か、あるいは両方だ。
大広間の中央に火鉢がいくつも置かれ、火鍋の赤が湯気を上げている。
伊勢湾の海鮮――鯛、鰤、烏賊、蛸――が皿に盛られ、御節の重箱が次々と開いていく。
狂犬印の甘味は相変わらず増殖していて、団子、羊羹、蒸し羊羹、そして「正月限定」と札の付いた謎の菓子まで並んだ。
「……これ、戦の兵站より殺しに来てますよね」
鳴海同心が真顔で言うと、鳴海奉行がため息を吐く。
「殺しに来てるのは腹だけにしてほしいわ」
「奉行さま、腹が先に死ぬと心も死にます」
「おまえ、正月に縁起悪いこと言うな!」
その端っこで、藤吉郎がずっと胃を押さえている。
去年も一昨年も、元旦は“事件”だった。
しかも今年は「3日間宴会・そのあと5日休み」という、朱印で保証された地獄と天国の抱き合わせ。
「……朱印があるってことは、逆に怖い」
藤吉郎が呻くと、利家が肩を叩いた。
「分かる。朱印は信用じゃなくて“覚悟”だ」
「利家、上手いこと言ってる場合か!」
慶次が笑いながら口に蒸し羊羹を放り込む。
噛む前に飲み込んだ。
「慶次、喉に詰まらせたら医者は姫様だぞ」
利家が言うと、慶次は胸を叩いて平然とする。
「姫様なら詰まりも引っこ抜いてくれるだろ。凶悪なガントレットで」
「それ治療じゃなくて処刑だよ!」
そこへ――
宴会の中心が、すっと立った。
狂犬お市様。
桜色の狂犬織の晴れ着。
なのに、所作が戦場の指揮官そのものだ。
豪奢な髪飾りの下にある目が、楽しそうに光っているのが、なお怖い。
「よいか、無礼講じゃ」
お市様は、いつもの“姫”らしさを一切放り投げた声で言った。
隣で景虎姉上が、淡く笑って盃を持ち上げる。
「……おまえ、今日も元気だな」
「正月じゃ。元気でなくてどうする」
「元気の方向が戦」
「姉上、文句あるなら小鼓で止めてみよ」
「止めたら余計に暴れるだろ」
姉妹の会話に、場がどっと笑う。
硬かった肩が一気に落ちる。
この瞬間だけ、皆が“戦のあと”を思い出せた。
そして――お市様は、どこから出したのか分からない津軽三味線を構えた。
「え、姫様、それ……」
誰かが口を開いたが、遅い。
ジャーン、と低く腹に響く音。
尾張の正月に、なぜ津軽の風が吹くのか。
理由は一つしかない。
お市様が面白がっている。
景虎姉上が、その横で小鼓を取った。
指先が軽く打つたび、乾いた音が空気を切る。
慶次は笛を咥えた。
阿国は、もう足が動いている。
鳴海の宴会は、音が揃った瞬間に“祭り”へ変わる。
「よーし」
お市様が三味線を鳴らしながら、まっすぐに狙いを定めた。
「まつ! 利家! 祝言まだか!」
「ぶっ……!」
まつが飲んでいたエールを吹きかけそうになり、慌てて口を押さえる。
利家は顔が赤くなって、耳まで染まった。
「姫様ぁぁぁぁ!」
利家が叫ぶと、周囲が一斉に煽る。
「まだかー!」
「早よせぇー!」
「尾張の正月は祝言じゃー!」
鳴海同心が、さらに火に油を注ぐ。
「利家さま、ここで宣言したら、朱印いらずで信用されます!」
「おまえ黙れ!」
水野が腕を組んで、妙に真面目な顔で頷く。
「農政と同じだな。時期を逃すと収穫が落ちる」
「水野、それ恋に使う言葉じゃない!」
おだいが目を輝かせて言う。
「じゃあ今が“播種”ですか?」
「おだいまで言うなぁ!」
まつが、顔は真っ赤なのに、目だけは鋭い。
尾張女の火花が散る。
「姫さん、正月から何言うてはりますの。
……ほら利家、あんたも何か言いぃな」
「言えるかぁぁぁ!」
慶次が笛を吹きながら、合いの手のように叫ぶ。
「利家、ここは男らしく――!」
「おまえは黙って笛吹いとけ!」
お市様は、腹を抱えて笑いながら三味線を掻き鳴らす。
その笑いが、戦の後の疲れを少しずつ剥がしていく。
皆が分かっている。
これは“いじり”じゃなくて、息をさせるための“遊び”だ。
景虎姉上が小鼓を打ちながら、お市様に横目を向ける。
「おまえ、酒飲んでないのに酔ってるだろ」
「酒? わらわに酒は効かぬ。水を飲んでるのと同じじゃ」
「その割に顔が一番赤い」
「火鍋のせいじゃ!」
阿国がくるりと回り、袖を翻して笑った。
「姫さま、なら踊りの酒で酔わせましょうか」
「やってみよ。倒れた者から寝正月じゃ!」
「それ寝落ち正月です!」
藤吉郎は、胃を押さえながらも笑ってしまった。
この城の宴会は、無茶で、開けっ広げで、うるさくて――
なのに、どこか優しい。
戦で死んだ者の名が読まれ、遺族への年金が決まり、供養の寺が約された。
その重さが、まだ胸に残っている。
だからこそ、こうして笑える時間が必要なのだ。
お市様が三味線の手を止め、少しだけ声を落とした。
場が自然に静まる。
「……皆、ようやった」
その一言が、温かい湯のように広がる。
次の瞬間――
お市様は、いつもの狂犬に戻る。
「さあ飲め! 食え! 踊れ!
明日も宴会じゃ! 逃げるなよ!」
「逃げたいのは胃です!」
鳴海同心が叫び、全員が笑った。
火鍋の湯気が、さらに濃くなる。
笛が鳴り、小鼓が響き、阿国が舞う。
そして津軽三味線が、鳴海の正月をぶち抜いていく。
無礼講――
鳴海の夜は、戦より賑やかだった。
桃の日記(狂犬記/作者:桃)
元旦、宴会。
さっきまで座敷牢で国の形の話してたのに、今は三味線と小鼓と笛と踊り。
鳴海の温度差、ほんと体に悪い。
お市様が津軽三味線を引っ張り出した時点で、だいたい終わった。
絶対、面白がってる。
「まつ!利家!祝言まだか!」って、正月から公開処刑。
利家の顔、火鍋より赤かった。
でも、皆が笑えたのは大事。
猿渡川の戦のあと、死んだ人の名前を聞いて、遺族のことを決めて、胸が重かった。
その重さを抱えたまま年を越すのは、きっとしんどい。
だから姫様は、わざと騒いでる。
狂犬のやり方だけど、優しい。
景虎姉上が小鼓打ちながら、姫様をちょっと呆れて笑ってるのも良かった。
姉妹って、ほんと不思議。
血が繋がってなくても、こうなるんだなって思った。
明日も宴会。
筆が死ぬ。胃も死ぬ。
でも、今日の笑い声は、ちゃんと書き残せた。




