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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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151/202

第149話 鳴海大宴会 狂犬の「年金」と握手会

西暦1555年1月1日(天文24年 正月元旦)

尾張国・鳴海城 評定の間(のち大広間)

座敷牢での会談が終わったあと、鳴海城の空気は、ぴたりと切り替わった。

あの湿った静けさ――紙の束と火鉢と、剃髪の話。

それが、襖1枚隔てた向こうでは、もう「正月」に塗り替えられている。

夕方。

評定の間を大広間として開け放ち、狂犬家臣団と狂犬堂幹部、鳴海奉行、鳴海同心、藤屋、百屋、福屋、伊賀の上忍たちが、ずらりと集められた。

人数の多さに、桃は内心で数えるのを諦めた。

諦めたが――料理は諦める暇を与えてくれない。

御節料理の重箱が並び、伊勢湾の海鮮が皿を埋め、火鍋の赤が湯気の中でうねる。

狂犬印の甘味が、団子も羊羹も、見たことのない菓子まで混ざっている。

清酒、焼酎、そしてお市様自作のエール。

樽が開くたび、香りが波のように押し寄せる。

「……これ、戦の兵站より難しいやつじゃない?」

鳴海奉行がぼそりと言うと、鳴海同心が即ツッコミした。

「奉行さま、正月は戦です。胃袋との」

「おまえのその言い方、好きだわ……いや嫌いだわ」

そこへ、主賓が入場した。

上座に、狂犬お市様。

その隣に、景虎姉上。

お市様は、狂犬織の晴れ着に、なぜか“戦場に出られる顔”を乗せている。

景虎姉上は、落ち着いた色合いの狂犬織。視線だけで場を鎮める、あの軍神の圧がある。

ただ、今夜はその圧が、少しだけ柔らかい。

「よし」

お市様が、すっと立った。

大広間のざわめきが、潮が引くみたいに止まる。

藤吉郎の胃が、きゅっと縮んだ。

(頼む……元旦に作戦会議だけはやめて……)

祈りながら、横の利家を見ると、利家も同じ顔をしていた。

慶次はというと、もう盃を握って「早く飲ませろ」顔だ。

お市様が、笑った。

その笑いは、戦の笑いじゃない。年始の笑いだ。……たぶん。

「座れ。今日は正月じゃ」

場がほっと緩む。

だが次の一言で、また締まる。

「……今日から3日間、飲むぞ。食うぞ。無礼講じゃ」

「出た……」

藤吉郎が小声で呻いた。

「無礼講って言うやつほど、後で覚えてるんだよな」

利家が真顔で言い、慶次が笑う。

「利家、怖がりすぎ! 無礼講は無礼していいって意味だろ」

「おまえは“無礼”がデフォルトだろ」

「褒めるなよ」

景虎姉上が、盃を持ったまま横目で言う。

「褒めてない」

会話のテンポだけで、場が温まっていく。

尾張の正月は、こうでないといけないらしい。

お市様は、ぐるりと皆を見渡して――

一拍、置いた。

「……まず、猿渡川の手柄の第一を呼ぶ」

「え?」

藤吉郎の声が漏れた。

会場がざわつく。

お市様は名を呼んだ。

「木下小一郎。木下仲。木下朝日。前へ」

三人が、恐る恐る進み出る。

周りの視線が刺さる。だが刺さり方が違う。責める刺さりじゃない。

“なにを言われるんだ”の刺さりだ。

藤吉郎は、心臓が跳ねた。

その名は、彼の中ではずっと“裏方”の名だったからだ。

お市様は、三人の前で――いきなり頭を下げた。

大広間が、しんと静まる。

酒の匂いだけが、妙に濃くなる。

「……ようやった」

顔を上げたお市様の目が、真っ直ぐだった。

凶悪で、優しい目。狂犬の目だ。

「狂犬堂本舗を中村に作って以来、硝石の製造管理を、長年やってくれた。

臭い糞尿。工場長屋から出る糞尿。

来る日も来る日も、手を突っ込んで、積んで、混ぜて、運んで……」

会場の男たちが、思わず顔をしかめる。

しかし、その“臭い”が、戦場で命を救ったことも皆知っている。

お市様が続ける。

「7年じゃ。

この日のために、よく耐えた。よく支えた。ありがとう」

三人の肩が震えた。

小一郎が、言葉にならない声を漏らし、仲が唇を噛み、朝日が目を真っ赤にした。

藤吉郎は、呆然としていた。

(あの仕事を、正面から“手柄の第一”って言うのか……)

胸の奥が、熱くなって、胃の痛みが一瞬だけ引いた。

景虎姉上が、お市様を横から見て、小さく笑う。

「おまえ、こういう時だけは、ちゃんと優しい」

「“だけ”って言うな」

「普段が狂犬すぎる」

「姉上も人のこと言えん」

場の空気が、泣きそうで、笑いそうで、忙しい。

お市様は、次の話に移った。

声が、静かになった。

「猿渡川で戦死した者の遺族へ。

わらわから、給金と年金を毎年渡す。

そして寺を建てる。狂犬堂と狂犬家臣団として、毎年、供養し続ける」

ざわめきが、消えた。

酒の席で聞くには重い。だが、ここで言わなければ意味がない重さだった。

誰かが小さく頷き、誰かが拳を握り、誰かが目を伏せた。

戦に勝っても、死者は帰らない。

その穴を“仕組み”で塞ぐ。お市様は、そういう主君だ。

お市様は、ふっと息を吐いて、いつもの調子を少し戻した。

「後の手柄は、平等じゃ。

……で、わらわの握手会と、給金引き上げでよろしく頼む」

一瞬、全員が「え?」の顔をして――

次の瞬間、笑いが爆発した。

「握手会!?」

鳴海同心が叫び、奉行が頭を抱える。

「姫さま、それ、どこで覚えたんですか!」

「尾張の民が喜ぶと聞いた」

「喜びますけど、方向性が違います!」

慶次が立ち上がり、盃を掲げる。

「握手会、最前列は俺だな!」

利家が即座に引きずり下ろした。

「おまえは最後尾だ!」

「なんでだよ!」

「危ないからだ!」

景虎姉上が、さらっと言う。

「槍より危ない」

「姉上までひどい!」

お市様は笑いながら、最後に釘を刺した。

声だけは、冗談じゃない。

「今後のことは、休み明けに伝える。

なお――今年は、こちらから戦はしない」

会場が、すっと静まる。

お市様は、もう一度言った。

「もう一度言う。こちらからは戦はしない。

……仕掛けられたら、知らんけど」

「知らんけど言うた!」

誰かが叫び、笑いが戻る。

尾張の正月が、戻る。

お市様が盃を上げた。

景虎姉上も上げる。

家臣団も、商人も、忍びも、奉行も同心も、皆が上げた。

「乾杯!」

エールの泡が弾け、火鍋の湯気が立ち上り、

パオンの香りと、海鮮の潮の匂いが混ざる。

元旦の鳴海は、今日も狂犬だった。

ただし――民の腹を満たす狂犬だった。

桃の日記(狂犬記/作者:桃)

元旦の夜、大宴会。

座敷牢で“国の設計図”を見たあとに、同じ城で“火鍋とエール”が始まるの、温度差で風邪ひく。

お市様が「無礼講」って言った瞬間、藤吉郎の顔が死んだ。

分かる。去年も一昨年も、元旦は地獄だった。

でも今日は、地獄じゃなくて、胃袋の戦だった。まだ優しい。

いちばん驚いたのは、手柄の第一が、木下小一郎・仲・朝日だったこと。

硝石のための糞尿管理。

臭い、汚い、誰も褒めない仕事。

それを、お市様が頭を下げて「ありがとう」って言った。

あの瞬間、場の空気が一回、泣いた。

それから戦死者遺族の給金と年金、寺を建てて供養し続けるって話。

勝ったから終わりじゃなくて、死んだ人の穴を仕組みで埋める。

狂犬って呼ばれてるのに、やってることは、めちゃくちゃ“国の母”っぽい。

……いや、噛みつき方は母じゃない。狂犬。

最後に「今年はこちらから戦はしない。仕掛けられたら知らんけど」

知らんけど、で全部台無しにするの、さすが尾張。さすが狂犬。

明日も宴会。

筆が折れそう。胃も折れそう。

でも、今日の“ありがとう”だけは、書き切った。

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