第149話 鳴海大宴会 狂犬の「年金」と握手会
西暦1555年1月1日(天文24年 正月元旦)
尾張国・鳴海城 評定の間(のち大広間)
座敷牢での会談が終わったあと、鳴海城の空気は、ぴたりと切り替わった。
あの湿った静けさ――紙の束と火鉢と、剃髪の話。
それが、襖1枚隔てた向こうでは、もう「正月」に塗り替えられている。
夕方。
評定の間を大広間として開け放ち、狂犬家臣団と狂犬堂幹部、鳴海奉行、鳴海同心、藤屋、百屋、福屋、伊賀の上忍たちが、ずらりと集められた。
人数の多さに、桃は内心で数えるのを諦めた。
諦めたが――料理は諦める暇を与えてくれない。
御節料理の重箱が並び、伊勢湾の海鮮が皿を埋め、火鍋の赤が湯気の中でうねる。
狂犬印の甘味が、団子も羊羹も、見たことのない菓子まで混ざっている。
清酒、焼酎、そしてお市様自作のエール。
樽が開くたび、香りが波のように押し寄せる。
「……これ、戦の兵站より難しいやつじゃない?」
鳴海奉行がぼそりと言うと、鳴海同心が即ツッコミした。
「奉行さま、正月は戦です。胃袋との」
「おまえのその言い方、好きだわ……いや嫌いだわ」
そこへ、主賓が入場した。
上座に、狂犬お市様。
その隣に、景虎姉上。
お市様は、狂犬織の晴れ着に、なぜか“戦場に出られる顔”を乗せている。
景虎姉上は、落ち着いた色合いの狂犬織。視線だけで場を鎮める、あの軍神の圧がある。
ただ、今夜はその圧が、少しだけ柔らかい。
「よし」
お市様が、すっと立った。
大広間のざわめきが、潮が引くみたいに止まる。
藤吉郎の胃が、きゅっと縮んだ。
(頼む……元旦に作戦会議だけはやめて……)
祈りながら、横の利家を見ると、利家も同じ顔をしていた。
慶次はというと、もう盃を握って「早く飲ませろ」顔だ。
お市様が、笑った。
その笑いは、戦の笑いじゃない。年始の笑いだ。……たぶん。
「座れ。今日は正月じゃ」
場がほっと緩む。
だが次の一言で、また締まる。
「……今日から3日間、飲むぞ。食うぞ。無礼講じゃ」
「出た……」
藤吉郎が小声で呻いた。
「無礼講って言うやつほど、後で覚えてるんだよな」
利家が真顔で言い、慶次が笑う。
「利家、怖がりすぎ! 無礼講は無礼していいって意味だろ」
「おまえは“無礼”がデフォルトだろ」
「褒めるなよ」
景虎姉上が、盃を持ったまま横目で言う。
「褒めてない」
会話のテンポだけで、場が温まっていく。
尾張の正月は、こうでないといけないらしい。
お市様は、ぐるりと皆を見渡して――
一拍、置いた。
「……まず、猿渡川の手柄の第一を呼ぶ」
「え?」
藤吉郎の声が漏れた。
会場がざわつく。
お市様は名を呼んだ。
「木下小一郎。木下仲。木下朝日。前へ」
三人が、恐る恐る進み出る。
周りの視線が刺さる。だが刺さり方が違う。責める刺さりじゃない。
“なにを言われるんだ”の刺さりだ。
藤吉郎は、心臓が跳ねた。
その名は、彼の中ではずっと“裏方”の名だったからだ。
お市様は、三人の前で――いきなり頭を下げた。
大広間が、しんと静まる。
酒の匂いだけが、妙に濃くなる。
「……ようやった」
顔を上げたお市様の目が、真っ直ぐだった。
凶悪で、優しい目。狂犬の目だ。
「狂犬堂本舗を中村に作って以来、硝石の製造管理を、長年やってくれた。
臭い糞尿。工場長屋から出る糞尿。
来る日も来る日も、手を突っ込んで、積んで、混ぜて、運んで……」
会場の男たちが、思わず顔をしかめる。
しかし、その“臭い”が、戦場で命を救ったことも皆知っている。
お市様が続ける。
「7年じゃ。
この日のために、よく耐えた。よく支えた。ありがとう」
三人の肩が震えた。
小一郎が、言葉にならない声を漏らし、仲が唇を噛み、朝日が目を真っ赤にした。
藤吉郎は、呆然としていた。
(あの仕事を、正面から“手柄の第一”って言うのか……)
胸の奥が、熱くなって、胃の痛みが一瞬だけ引いた。
景虎姉上が、お市様を横から見て、小さく笑う。
「おまえ、こういう時だけは、ちゃんと優しい」
「“だけ”って言うな」
「普段が狂犬すぎる」
「姉上も人のこと言えん」
場の空気が、泣きそうで、笑いそうで、忙しい。
お市様は、次の話に移った。
声が、静かになった。
「猿渡川で戦死した者の遺族へ。
わらわから、給金と年金を毎年渡す。
そして寺を建てる。狂犬堂と狂犬家臣団として、毎年、供養し続ける」
ざわめきが、消えた。
酒の席で聞くには重い。だが、ここで言わなければ意味がない重さだった。
誰かが小さく頷き、誰かが拳を握り、誰かが目を伏せた。
戦に勝っても、死者は帰らない。
その穴を“仕組み”で塞ぐ。お市様は、そういう主君だ。
お市様は、ふっと息を吐いて、いつもの調子を少し戻した。
「後の手柄は、平等じゃ。
……で、わらわの握手会と、給金引き上げでよろしく頼む」
一瞬、全員が「え?」の顔をして――
次の瞬間、笑いが爆発した。
「握手会!?」
鳴海同心が叫び、奉行が頭を抱える。
「姫さま、それ、どこで覚えたんですか!」
「尾張の民が喜ぶと聞いた」
「喜びますけど、方向性が違います!」
慶次が立ち上がり、盃を掲げる。
「握手会、最前列は俺だな!」
利家が即座に引きずり下ろした。
「おまえは最後尾だ!」
「なんでだよ!」
「危ないからだ!」
景虎姉上が、さらっと言う。
「槍より危ない」
「姉上までひどい!」
お市様は笑いながら、最後に釘を刺した。
声だけは、冗談じゃない。
「今後のことは、休み明けに伝える。
なお――今年は、こちらから戦はしない」
会場が、すっと静まる。
お市様は、もう一度言った。
「もう一度言う。こちらからは戦はしない。
……仕掛けられたら、知らんけど」
「知らんけど言うた!」
誰かが叫び、笑いが戻る。
尾張の正月が、戻る。
お市様が盃を上げた。
景虎姉上も上げる。
家臣団も、商人も、忍びも、奉行も同心も、皆が上げた。
「乾杯!」
エールの泡が弾け、火鍋の湯気が立ち上り、
パオンの香りと、海鮮の潮の匂いが混ざる。
元旦の鳴海は、今日も狂犬だった。
ただし――民の腹を満たす狂犬だった。
桃の日記(狂犬記/作者:桃)
元旦の夜、大宴会。
座敷牢で“国の設計図”を見たあとに、同じ城で“火鍋とエール”が始まるの、温度差で風邪ひく。
お市様が「無礼講」って言った瞬間、藤吉郎の顔が死んだ。
分かる。去年も一昨年も、元旦は地獄だった。
でも今日は、地獄じゃなくて、胃袋の戦だった。まだ優しい。
いちばん驚いたのは、手柄の第一が、木下小一郎・仲・朝日だったこと。
硝石のための糞尿管理。
臭い、汚い、誰も褒めない仕事。
それを、お市様が頭を下げて「ありがとう」って言った。
あの瞬間、場の空気が一回、泣いた。
それから戦死者遺族の給金と年金、寺を建てて供養し続けるって話。
勝ったから終わりじゃなくて、死んだ人の穴を仕組みで埋める。
狂犬って呼ばれてるのに、やってることは、めちゃくちゃ“国の母”っぽい。
……いや、噛みつき方は母じゃない。狂犬。
最後に「今年はこちらから戦はしない。仕掛けられたら知らんけど」
知らんけど、で全部台無しにするの、さすが尾張。さすが狂犬。
明日も宴会。
筆が折れそう。胃も折れそう。
でも、今日の“ありがとう”だけは、書き切った。




