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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第148話 座敷牢に置かれた「国の設計図」


西暦1555年1月1日(天文24年 正月元旦)

尾張国・鳴海城 奉行所(座敷牢)

座敷牢の襖が、静かに閉まった。

年賀膳の湯気だけが残り、火鉢の炭が、ぱちりと鳴る。

今川義元は、膳の端に置かれた甘酒を見つめ、息を吐いた。

大原雪斎は、いつも通り背筋を崩さず、目だけで部屋の空気を量っている。

そこへ、また襖が開いた。

入ってきたのは、狂犬お市様と景虎姉上。

晴れ着姿のまま――しかし手元だけは、戦支度そのものだった。

女中が、盆をいくつも運び込む。

盆の上には、巻物、綴じ冊子、図面、札。

紙の匂いが、食い物の匂いを押しのけた。

「……まだ続きがあるのか」

義元が言うと、お市が小さく頷いた。

「うん。口だけだと、また『綺麗事』って言われるから」

景虎が横で、さらっと刺す。

「姉妹喧嘩の口約束みたいに聞こえるからな」

「言い方!」

お市が即座に返し、しかし声は柔らかい。

この座敷牢では、噛みつき方を変えている。医者の噛みつき方だ。

お市は、盆の上の束を順番に並べ始めた。

見出し札が、墨で太く書かれている。

「三河・遠江・駿河 農業指導書」

「商業交易指導書」

「漁業指導書」

「奉行治安書」

「無税の書」

「職人工業書」

義元の眉が、わずかに上がる。

雪斎の目が、ほんの少しだけ鋭くなった。

「……書物の山で、国を動かすつもりか」

「動くよ」

お市は即答した。

「動かすために書いた」

景虎が、義元の反応を見て、少しだけ口角を上げる。

「こいつ、戦より筆の方が怖いって言われるやつ」

「姉上、それ褒めてない」

お市がむくれ、すぐ真顔に戻る。

「まずはこれ。農業指導書」

お市は巻物を開き、図を指した。

川筋、用水、堤、田の区画、畑の配置。

そして、村の“逃げ道”まで描かれている。

「無税にするってのは、ただ年貢を取らないって意味じゃない。

水田は水、水路、堤、貯え。畑は種、肥え、乾かし、保存。

取らない分、村が強くなるように“仕組み”を入れる」

義元が鼻で笑いかけ、途中で止まった。

図が、妙に現実的だったからだ。

「……村の逃げ道とは何だ」

景虎が先に答えた。

「徴発が来たら、村ごと消える。人も荷も。

それが三河で起きて、今川は詰んだ」

義元の喉が、少し鳴った。

雪斎が、低く言う。

「つまり、無税は“焦土”にもなる。敵だけが飢える」

お市が頷いた。

「うん。だから、むやみに敵に回したくない。

こっちは“民の腹”を守りたいだけ」

言いながら、お市は次の冊子を差し出す。

「商業交易指導書。

駿府と熱田、岡崎、吉田、浜名、そして越後まで、物が流れるようにする。

税で縛るんじゃなく、流通で縛る。

……縛るって言い方は良くないか。繋ぐ、だね」

景虎が肩をすくめた。

「縛るで合ってる。繋いだら逃げられない」

「言い方ァ!」

お市がまた言い、義元の口元が一瞬だけ緩む。

雪斎が、冊子の端を押さえ、ページをめくった。

そこには、漁業の操船、干物の規格、塩の確保、港の奉行の権限、治安の裁定手順――

つまり、国が“回る手順”が並んでいた。

「……奉行治安書、か。

治安は刀で守ると思われているが、これは“手順”で縛っている」

「刀は最後」

お市は淡々と返した。

「最初は話。次が罰。最後が刃。

順番が逆になると、民は怯えて逃げる。逃げたら、国が死ぬ」

義元が、ふっと笑う。

「国を治療する医者の口だな」

「うん」

お市は頷いた。

「だから、次は“無税の書”」

義元が身を乗り出す。

「無税の理屈を、書にしたのか」

「した」

お市は冊子を置き、指で一行を叩いた。

「税を取らない代わりに、民が自分で稼げる仕組みを入れる。

狂犬堂で働けば給金が出る。給金が回れば、商いが増える。

増えた商いは、港と道を太らせる。太った港と道が、また稼ぐ」

雪斎が短く息を吐く。

「……国家の金脈を、民の手元に置くのか」

「置く」

景虎が横から言った。

「置かないと、民は売られる」

義元の表情が、固くなった。

「売られる……とは」

お市は、そこで初めて声の温度を下げた。

怒りでも悲しみでもない。医者が病名を告げる時の冷たさ。

「南蛮に、奴隷として売られてる。

借金、飢え、口減らし。港で消える。

……見ないふりをすると、ずっと続く」

座敷牢の火鉢が、ぱちりと鳴った。

雪斎が、視線を上げる。

「それを止めるために、金銀を外から回収する、と」

お市は頷き、景虎と視線を合わせた。

姉妹の合図みたいに。

「越後は、農業改革で北に伸びる。沿海州、女真と交易。

銀と黒テンを越後に持ち帰る。

黒テンは堺の南蛮商館に流す。銀は越後で回す」

景虎が、そこで自分の胸を軽く叩いた。

「越後が稼げば、越後の女が売られない。

北の村が生きれば、南の港に“売られるために”降りてこない」

お市が続ける。

「狂犬堂も、全商品を南蛮に売る。

日本から出ていく。金銀を回収する。

……そうしなきゃ、こっちから人が出ていく。物じゃなくて、人が」

義元は黙った。

その沈黙は、負け惜しみの沈黙ではない。

今までの戦の価値観が、別の物差しで測られている時の沈黙だ。

雪斎が、最後の束を手に取った。

それは一枚の図――いや、素案だった。

題は、さらに大きい。

「五家大名連合 素案」

「……武田、北条、織田、長尾、今川。5家の連合」

雪斎が読み上げる。

お市が、少しだけ頭を下げた。

「うん。

この5家で、足利と三好に圧力をかける。

“国の形”を変えさせる。

戦で首を取り合うより先に、ルールを変える」

義元が、低く言う。

「足利将軍家に、地方の大名が連合して圧をかける……反逆に見えるぞ」

景虎が、義元の言葉を受けて、逆に軽く笑った。

「反逆でもいい。民が飢えるよりましだろ」

お市が、景虎の肩を軽く小突く。

「姉上、言い方。……でも、気持ちは同じ」

そしてお市は、義元と雪斎をまっすぐ見た。

「義元。雪斎。

今川が“負けて終わる”んじゃなくて、“国を変える側”に残ってほしい。

だから剃髪しても、終わりじゃない。役が変わるだけ」

義元の目が揺れた。

誇りと、現実と、息子の顔と、駿府の街の匂いが、交互に浮かんでいる顔だった。

雪斎が、ぼそりと言う。

「……感じ入った、というやつか。

狂犬の策は、刀より深いところを刺してくる」

義元が、やっと笑った。

苦いが、逃げる笑いではない。

「わしは、戦で天下を動かすと思っておった。

……だが、腹と道と港で、天下は動くのだな」

お市が、ふっと息を吐く。

「うん。腹。道。港。

それが揃うと、戦は“損”になる」

景虎が、最後に軽く言った。

「損だって分かったら、人はやめる。

……やめないやつは、こっちで止める」

「姉上、怖い!」

お市が笑い、景虎も鼻で笑った。

座敷牢の中で、正月らしい笑いが、ほんの少しだけ生まれた。

外では、鳴海城の宴会の仕込みが進んでいる。

酒樽が転がり、魚が焼け、火鍋の唐辛子が刻まれている。

そしてこの座敷牢では、もう一つの“宴”が始まっていた。

紙の上で国を作り直すという、狂犬の宴が。

義元は、冊子の山に手を置き、静かに言った。

「……読もう。

雪斎、読むぞ」

雪斎が頷く。

「読まねば、評する資格もない」

お市は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

景虎が、姉妹の距離で囁く。

「ほらな。ちゃんと噛めば、飲み込む」

「姉上、それ、比喩が狂犬すぎる」

「おまえが狂犬なんだよ」

「言うな!」

――元旦。

鳴海の正月は、またひとつ“変な形”で動き出した。

桃の日記(狂犬記/作者:桃)

天文24年 元旦。

座敷牢の会談のあと、お市様が“書”を山ほど出した。山ほど。ほんとに山。

私は筆が追いつかない。

「農業指導書」「商業交易指導書」「漁業指導書」「奉行治安書」「無税の書」「職人工業書」。

しかも最後に「五家大名連合 素案」。

正月って、もっと餅とか、凧とか、そういうのじゃないのか。

でも義元様と雪斎様、黙って読もうとしてた。

感じ入った、って空気だった。

戦で負けたから黙ったんじゃない。

“この先”の話をされて、黙ったんだと思う。

奴隷の話が出た時、座敷牢が一瞬だけ冷えた。

私は、胸がきゅっとした。

遠い話みたいで、遠くない。港がある限り、ほんとにある。

景虎姉上とお市様の喧嘩みたいな言い合いが、少しだけ正月っぽくて、救われた。

姉妹って、こうやって並んで、怖い話も笑いにして前に進むんだな。

今夜から宴会3日。

私の胃も痛い。

でも、今日の座敷牢を見たら、宴会の胃痛くらいは耐えないといけない気がした。

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