第147話 元旦朱印と、座敷牢の年賀
西暦1555年1月1日(天文24年 正月元旦)
尾張国・鳴海城
――新年明けましておめでとうございます。
本来なら、そう言って杯を上げる日である。
しかし鳴海城の正月は、別の意味で“めでたい”。
今宵より大宴会。3日間。宴会明け、5日休み。
――以上。朱印。
年末に回ってきた、その紙切れが、鳴海城の全員の胃を握りつぶしていた。
「朱印を出さなきゃ信用されない時点で、うちの家中、終わってません?」
誰かが言い、誰も否定できなかった。
そして問題は、朱印の主が――狂犬お市様だということだ。
ブラックである。だが、優しい……のか? ほんまか?
優しさの形が“強制休暇の朱印”という時点で、もう判断がつかない。
廊下の柱にもたれて、木下藤吉郎が腹を押さえる。
「去年も一昨年も、元旦から碌なことがなかった……。なんで正月って、胃を痛める行事なんや……」
背後から、家臣がぼそっと言った。
「藤吉郎様、宴会は戦でございますゆえ」
「言うな! より胃が痛いわ!」
城内は正月の支度で華やいでいるのに、空気だけが妙に殺気立っていた。
酒樽が運ばれ、膳が並び、魚が焼ける香がする。
めでたい。だが同時に、恐ろしい。鳴海の正月は、いつも両立する。
――そんな鳴海城の、さらに奥。
奉行所の座敷牢だけが、静かだった。
ここには“特別待遇”の囚人がいる。
今川義元と、大原雪斎。
座敷牢といっても、凍えるような粗末な囲いではない。
火鉢があり、寝具もある。食も温かい。
丁寧すぎて、かえって恐い。鳴海式の“情け”である。
襖が開き、女中たちが正月膳を運び入れる。
鯛の塩焼き、伊達巻、栗きんとん、卵焼き、雑煮。
……そして、香り高い甘酒まで付いている。
義元が膳を見て、乾いた笑いを漏らした。
「……捕虜に年賀膳とは。滑稽よの」
雪斎は視線だけを上げる。
「滑稽でも、毒ではない。……相手は“医”を名乗る狂犬だ。殺すならもっと簡単にやる」
そこへ足音が二つ。
襖が静かに開く。
入ってきたのは、狂犬お市様と長尾景虎姉上だった。
2人とも、狂犬織の晴れ着に身を包んでいる。
お市は桜色。景虎は藤の花の色。
戦場で鎧を着て並ぶ姉妹が、今日は女の正月の装いで並んだ。
景虎が先に口を開く。声音は柔らかいが、芯は鋼だ。
「義元。雪斎。……年が改まった。生きて年越しできたな」
義元が目を細める。
「おぬしらが生かしたのだろう。礼を言えと?」
お市が、すっと一礼した。
「礼ではない。年賀だ。……明けましておめでとうございます」
その一言が、座敷牢の空気をひと息だけ緩めた。
雪斎は眉をわずかに動かす。
「……年賀の次は、条件か」
お市は頷いた。
そして、晴れ着の袖を整え、医師が診察に入る時の呼吸で言う。
「まず、義元。髪を剃ってほしい」
義元の目が鋭くなる。
「僧に戻れ、と申すか」
景虎が口を挟む。
「戻れ、じゃない。戻るだけの道を、こちらが残すって話だ」
お市が続けた。
「剃髪したのち、熱田に元義寺を寄進する。義元の名でな。氏真の屋敷の隣に置く。隣同士で暮らせるようにする。――私と織田が保護する」
義元は一度、黙った。
雪斎が低く言う。
「……風流を潰さぬ、という話もあったな」
「潰さない。むしろ支える」
お市は即答した。
「今川の風流、文化、芸能は、氏真の生きる道だ。そこは守る」
義元が、鼻で笑う。
「捕虜に寺。息子に芸能。……狂犬よ、そなたは国を玩具にしておるのか」
お市は首を振った。
「玩具なら、もっと楽に遊ぶ。これは“治す”話だ」
雪斎が、目を細める。
「……見返りは」
お市は、ここで深く頭を下げた。
狂犬が頭を下げる。
それは、戦場の突撃より重い所作だった。
「遠江と駿河を、“今川の名で”委任してほしい。
名は今川に残す。民の混乱を避けるためだ。実務は、私と織田が握る」
義元が、苦く笑った。
「体面を薬にするつもりか」
「体面は、民の心の薬になる」
お市はまっすぐ言った。
「薬は苦いだけでは飲めぬ。甘みが要る。名が、その甘みだ」
景虎が、義元を見据える。
「それと、会談を持つ。駿河で」
「誰と誰の会談だ」
義元の声が低くなる。
お市は、指を折らずに名を並べた。
「武田晴信。北条氏康。織田信長。織田市。長尾景虎。
議長として、今川義元と大原雪斎。――駿河で」
雪斎が、静かに息を吐く。
「戦国の獣を一座に集める気か」
「集める」
お市は言い切った。
「民のため。天下のためだ」
そして、お市は言葉を重ねる。
ここからは、狂犬の“噛み砕いた理”だった。
「三河・遠江・駿河は、無税の地になる。人が移り住む。流れが変わる。
駿遠三尾は、女が売られない。子が泣かない大地になる」
義元が眉を寄せる。
「……綺麗事だ」
景虎が、横から淡々と刺す。
「綺麗事じゃない。腹の話だ。腹が満ちれば、兵は集まらない。怨みも育たない」
お市が、続ける。
「晴信はいずれ詰む。氏康も同じだ」
言い方は静かだが、刃がある。
「武田も北条も、私らの策がなければ豊かになれない。豊かになれない限り、戦は終わらぬ」
雪斎が、少しだけ顔をしかめた。
「……つまり、我らは“止め金”だと?」
「そうだよ」
お市はうなずいた。
「この先、必ず天下が、義元殿と雪斎殿を必要とする時が来る。今じゃないだけだ」
義元は、膳の上の雑煮を見た。
白い餅が、静かに湯気を立てている。
戦の煙ではない湯気だ。
義元が、ぽつりと言う。
「……わしが剃髪すれば、民は救われるか」
景虎が即答する。
「救われる。少なくとも、救われる道が残る」
お市が一歩だけ近づき、声を落とした。
姉妹の間で交わすような、近い声だ。
「義元、頼む。耐えて。今川が憎まれて終わるんじゃなくて、“終わらせた”って形にしたい」
義元は、しばらく黙っていた。
雪斎は何も言わない。だが目だけは、義元を見ている。
やがて義元が、息を吐いた。
「……狂犬よ。そなたは、医師だな。国の骨を折ってでも、繋ぎ直す医師だ」
お市は小さく笑った。
「骨を折らずに治せるなら、そうしたい」
景虎が肩をすくめる。
「無理だ。戦国は、最初から骨折してる」
お市が即座に返す。
「姉上、それ言うと、私らも骨折してるみたいじゃん」
「してる」
「即答すな!」
――座敷牢に、ほんの少し笑いが落ちた。
義元が、膳の甘酒を口に含む。
「……甘いな」
「正月だから」
景虎が言う。
お市が、義元を見て、もう一度だけ頭を下げた。
「お願いします。民のため。天下のため。こらえてください」
雪斎が、最後に低く言った。
「……決めるのは義元。だが我らは、逃げ切れる状況ではない。選ぶしかない」
義元は、ゆっくり頷いた。
まだ答えは出していない。
だが、逃げる目ではなかった。
鳴海城の元旦は、こうして始まった。
宴会朱印で胃を痛める家臣団。
座敷牢で年賀を交わし、天下の縫い目を探る姉妹。
――そして、正月とは本来、始まりの日だ。
鳴海では、それが少しだけ、ほんとうに機能していた。
桃の日記(狂犬記/作者:桃)
天文24年の元旦。
「明けましておめでとう」って言いたいのに、鳴海は朱印が怖い。宴会の朱印が怖い。
朱印って、紙なのに、刃物みたいに刺さる。
でも今日、もっと刺さったのは、お市様が座敷牢で頭を下げた時。
あの人、怒鳴るより頭を下げる方が怖い。
怖いのに、景虎姉上が隣で、姉妹みたいに肩を支えてた。
義元と雪斎に年賀を言って、正月膳を出して、剃髪と寺の話をして、会談の話をして。
戦の勝ち負けじゃなくて、国を“治す”話だった。
私は筆が震えた。
宴会も怖いけど、こういう話を、ちゃんと書けるようになりたい。
鳴海は変。だけど、変だから、子どもが泣かないって言い切れるのかもしれない。




