表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

148/157

146話 年越し蕎麦と、越後の海へ


西暦1554年12月31日(天文23年・師走晦日)

尾張国・鳴海城 台所横の食堂

鳴海城の台所は、戦の城とは思えぬほど、年の瀬の匂いがした。

鶏の脂が出汁に溶け、刻み葱が香りを立て、焼きたての玉子が甘く湯気を上げる。

食堂の卓に向かい合うのは、狂犬お市様と景虎姉上。

お市は狂犬織の桜色、景虎は藤の花の色の狂犬織。ふたりとも、武具ではなく着物で年を越す――それだけで、今年がどれだけ凄まじかったかが分かる。

「……はぁ。蕎麦って、兵糧より効くわ」

お市が椀を抱えてすすり、少しだけ目を細めた。

景虎姉上は玉子焼きをひと口、噛んでから、鼻で笑う。

「効くのは、汁の塩じゃないの。市、年の瀬まで薬湯みたいに言うな」

「姉ちゃん、玉子焼き好きすぎ。武神のくせに甘党」

「甘いのは正義。……って、鳴海で覚えた」

「ほら、狂犬堂の罪」

ふっと笑い合ったあと、沈黙が落ちる。

今年一年。猿渡川。岡崎。三河の調略。今川の崩れ。捕縛。座敷牢。朱印。

勝ったはずなのに、死者の名を聞いたときの、お市の頷きが消えない。

景虎姉上が、箸を置いた。

「……市。来年、どうする?」

お市は玉子焼きを箸で切り、ゆっくり言う。

「来年は、こっちから戦は起こさん」

景虎姉上の目が、少しだけ鋭くなる。

「本気?」

「本気。三河、遠江、駿河は無税。水田も畑も。内政に振る。

治水、治山、道、港、寺子屋。まず腹を満たす。飢えさせん」

「無税って言葉は、刃物だぞ。振り回したら血が出る」

「分かってる。だから、振り回さん。……握って、守る」

景虎姉上は、蕎麦をすすりながら、短く頷いた。

「市のそういうとこ、嫌いじゃない」

「姉ちゃんに嫌われたら、わらわ泣く」

「泣かんでいい。泣くなら、来年の越後で泣け」

「それ、泣く前提やん」

「市が“倍にする”って言った農政が当たったら、泣くのは嬉し泣きだ」

「よし。じゃ、渡す」

お市は卓の横の包みを引き寄せ、布をほどいた。

出てきたのは、丁寧に綴じられた四冊。

農政の書

商業交易の書

諜報の書

漢方薬の書

景虎姉上は手に取った瞬間、紙の重みで呼吸が変わった。

これは手紙じゃない。国そのものだ。

「……市、こんな量、いつ書いた」

「書いた。寝ずに。姉ちゃんが越後に帰ったとき、困らんように」

「困るのは私より、書いたお前の身体だろ」

「医者やし」

「医者は不死身じゃない」

姉妹の言葉が、少しだけ刺さる。でも、刺さるのは心配が混ざっているからだ。

お市は、まず農政の書を景虎姉上の前へ押し出した。

「春日山の城下、関川の流域から始める。畑を増やす。作付けは――」

お市が指を折る。

「馬鈴薯、唐芋、菜種、胡麻、大麦、小麦、ライ麦、小豆、大豆、蕎麦、唐辛子、わさび、山椒、生姜。

それと乾燥調味料を作る。粉と塩だけじゃ人は折れる。味が要る」

景虎姉上が眉を上げる。

「市、急に真顔で“味が要る”とか言うな。軍議みたいだ」

「軍議や。腹の軍議」

「腹の軍議ってなんだよ」

お市は平然と続ける。

「馬鈴薯と唐芋は飢えに強い。麦は脱穀して麺になる。粉にして南蛮のパオンにもなる。

冬が長い越後は、腹の底が強い国が勝つ」

景虎姉上は、書を撫でるようにページをめくった。

「……なるほど。畑の種類で、飢えを散らすわけか」

「そう。ひとつ外しても全部が死なんように。戦と同じ」

景虎姉上が小さく笑う。

「市は、何でも戦に繋げるな」

「姉ちゃんが何でも戦に繋げるから、わらわもそうなる」

「私のせいか」

「半分」

「半分だけか、優しいな」

お市は箸を置き、今度は商業交易の書を叩いた。

「次。越後を“陸の端”にしない。海に繋ぐ」

景虎姉上が身を乗り出す。

「航路は?」

お市は、さらっと言う。

「ざっくり言えば、熱田~柏崎~佐渡~羅津~敦賀~舞鶴。

三角で回す。柏崎~佐渡~羅津~敦賀舞鶴。

キャラックを走らせる。九鬼にも走らせる。……それと姉ちゃんに、キャラック6隻ぶん投資する」

景虎姉上がむせた。

「……6隻? さらっと言う額じゃないぞ」

「姉ちゃん、軍神やろ。海も戦場。船が槍になる」

「私は陸の軍神だ」

「今から海の軍神にもなる」

「勝手に増やすな!」

ふたりの声が重なって、台所の女中が一瞬こちらを見て、すぐに目を逸らした。

この城では“姉妹の口喧嘩”は平和の音だ。

お市は笑いながら、交易品を指でなぞる。

「柏崎~羅津は、越後上布、越後の調味料、狂犬堂の全商品。

羅津~敦賀舞鶴は、黒テン、朝鮮人参、韓紙、韓布、銀」

景虎姉上が、真面目な顔に戻る。

「黒テンは……堺の南蛮に高く売れるって話か」

「うん。黒テンはポルトガル商館に売る。

韓布は、熱田か越後で染める。染め直したら価値が跳ねる。で、また大陸へ戻して売る。

朝鮮人参も、大陸の女真に流せる。向こうは薬が金になる」

「流通で二度稼ぐ……。市、やっぱり怖い」

「姉ちゃんが怖いって言うとき、だいたい褒めてる」

景虎姉上は、ため息と一緒に笑った。

「……褒めてる。悔しいけど」

「よし」

お市は、少し声を落とす。

「姉ちゃん。これ、全部“儲け話”に見えるかもしれんけど――本当は違う。

越後の農民が、娘を売らんでいい国にしたい。冬に人が死なない国にしたい。

姉ちゃんが、胸の奥でひとりで凍えない国にしたい」

景虎姉上の視線が揺れ、でも逸らさない。

「……市」

「ん?」

「お前、こういうときだけ真面目すぎる」

「姉ちゃんのことは、ふざけられん」

景虎姉上は、書を胸に抱えたまま、ぽつりと言った。

「……ありがとな」

「姉妹やし」

「その返し、雑」

「姉ちゃんが雑って言うなら、たぶん丁度いい」

景虎姉上は、玉子焼きをひと口食べて、少しだけ目を潤ませた。

「市。来年、戦を起こさないって言ったな」

「言った」

「守るために戦うのは?」

「……それは、姉ちゃんが止めろ」

「止められなかったら?」

「そのときは――一緒に噛む」

景虎姉上は笑った。

今年の最後に、ようやく“姉妹の笑い”が、湯気の中でほどける。

外では、除夜の支度が進み、遠くから太鼓の音がかすかに聞こえた。

鳴海の年が、静かに閉じていく。

文末 桃の日記(狂犬記)

作者:桃

西暦1554年12月31日(天文23年・師走晦日) 夜/鳴海城

大晦日。

姉ちゃんと、鶏肉蕎麦と玉子焼き。

戦の匂いじゃなくて、出汁の匂い。今日はこれが勝ち。

姉ちゃんの着物は藤の色。

わらわは桜色。並ぶと、変に落ち着く。姉妹って不思議。

来年は、こっちから戦を起こさない。

三河も遠江も駿河も無税。内政に振る。腹を満たす。子を泣かせない。

吠えるのは後でいい。牙は研ぐけど。

越後に渡した。

農政の書、商業交易の書、諜報の書、漢方薬の書。

交易は熱田から柏崎、佐渡、羅津、敦賀、舞鶴。三角に回す。

姉ちゃんにキャラック6隻分の投資。姉ちゃん、むせた。かわいい。

黒テンは南蛮が高く買う。韓布は染めてまた売る。銀を回して畑と港を増やす。

儲け話に見えるけど、本当は違う。

越後の冬で、娘が売られない国にする。

姉ちゃんが凍えない国にする。

姉ちゃんが「ありがとな」って言った。

それだけで、今年の勝ち。

――桃

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ