145話 年の瀬の座敷牢 降伏勧告と剃髪
西暦1554年12月27日(天文23年 師走27日) 尾張・鳴海
年の瀬。
鳴海の町は、いつもより少しだけ灯りが多い。門松の竹が運び込まれ、餅米の匂いが風に混じる。だが、鳴海城の裏手――奉行所だけは、別の季節だった。
火付盗賊改役の奉行所。
仮にそう名付けられた場所は、治安の象徴であり、狂犬政権の「牙」の根だ。ここに入れば、武将でも、僧でも、盗賊でも、ただの“被疑者”になる。
座敷牢の廊下に、足音が響く。
「来たぞ」
岡部元信が低く言った。奉行所を預かる男は、普段は無駄口を叩かない。だが今日は、口数が少ないほど空気が張る。
戸が開く。
今川義元が、連行されてきた。
粗末な縄ではない。
“特別待遇”だ。つまり、屈辱を丁寧に整えるための待遇。
衣はみすぼらしくない。身体は傷だらけでもない。食事も温かい。ちゃんこ鍋が湯気を立てている。
――逃げたくても逃げられない、という現実だけが、目に見えるように置かれていた。
「……ちゃんこ、か」
義元が呟く。声は乾いていた。
隣室には、すでに大原雪斎。
岡部元信の奉行所で、座敷牢に入っている。こちらも同じく特別待遇。温かい飯、清い水。
“死なせない”ための待遇だ。
雪斎は義元を見て、目だけで笑った。
笑ったというより――「遅い」と言った。
義元が、喉の奥で息を詰める。
「……雪斎」
「義元様。生きておられましたか」
「言い方があるだろう」
「では、正しく。――生かされておられましたか」
言葉が刃になる。
ここは戦場ではない。だが、戦より痛い場所だ。
■ 第一幕 降伏勧告(雪斎)
しばらく時間を置いた。
火が落ち着くまで。湯が沸くまで。人の心が、逃げ場を探し切るまで。
そして――戸が再び開く。
狂犬お市様が入ってきた。
なのに、白衣をまとっている。医師としての白だ。戦場と診療所を同時に連れて歩く女。
隣に、景虎姉上。
白頭巾で頭を包み、
視線が冷たいのに、声は落ち着いている。諸葛亮でも赤子扱いする軍神の圧は、座敷牢の畳を沈める。
お市様は、まず雪斎の前に座った。
距離は近い。だが触れない。医師が患者に触れる前の距離だ。
「大原雪斎」
「……狂犬殿」
「命は助ける。だが、未来を選べ。今川は、ここで終わるか、形を変えるか」
雪斎が眉を動かす。
それだけで、部屋の温度が落ちた。
「形を変える、とは」
景虎が淡々と言う。
「宗教を戦に使った者は、宗教に呑まれる」
「……」
「寺を恐れて手を出せぬ軍は、寺に心臓を握られている。貴殿らは、もう兵糧より先に“正当性”が尽きた」
雪斎は、目を閉じた。
ただの敗北ではない。理屈で追い詰められる敗北は、逃げ道がない。
お市様が一枚の文を置く。
朱印。今川氏真の朱印状。
そして、もう一枚――狂犬側の保護朱印。
「氏真殿は、文化芸能の道へ行った。戻さぬ」
景虎が言い切った。
「戦の器ではない。だが、国の灯りにはなる。灯りは消さぬ」
雪斎は、喉の奥で笑いそうになって、堪えた。
笑えば負ける。もう負けているのに、まだ負けたくない顔だった。
「降伏条件は?」
雪斎が問う。
お市様は、指を一本立てた。
「遠江・駿河の“勝手次第”を渡せ。兵は解散、城は開け、民に手を出すな」
二本目。
「僧侶は僧侶に戻れ。坊主が政治に口を出すなら、国家を救え。できぬなら、畑を耕せ」
三本目。
「貴殿は、生きて償え。雪斎。――命に向き合え。僧侶とは、そういうものだ」
雪斎のこめかみが、僅かに震えた。
戦で震えぬ男が、言葉で震える。
「……狂犬殿は、仏の顔で刃を振るう」
「医師は、命を助けるためなら骨も折る」
お市様の声は柔らかい。
それが逆に怖い。
■ 第二幕 降伏勧告(義元)
また時間を置く。
雪斎の心が折れ切る前に。義元の心が固くなる前に。
そして、次。
戸が開く。
お市様と景虎姉上が、義元の前に座る。
義元は、ちゃんこ鍋の湯気を見ていた。湯気の向こうに、自分の国が溶けていくように見える。
「今川義元」
お市様が呼ぶ。
義元は顔を上げた。太守の顔を作ろうとしたが、うまくいかない。
「……首を取りに来たか」
「首は取らぬ。髪を取る」
「は?」
義元の目が丸くなる。
景虎姉上が、静かに言う。
「剃髪しなさい。僧に戻れ」
義元の口が開いたままになる。
太守としての死よりも、僧として生きるほうが怖い。権力の衣を脱がされるのが怖い。
「ふざけるな……! わしは、海道一の弓取り――」
「政治が得意だっただけ」
景虎が切る。容赦がない。軍神の言葉は短い。
お市様が、少しだけ声を落とした。医師の声になる。
「義元。貴殿は、僧の器だ。戦の器ではない」
「……侮辱か」
「診断だ」
義元は、笑った。乾いた笑い。
だが笑いの途中で喉が詰まる。
「……わしは、何をしに来たのじゃ。三河で、座敷牢で、ちゃんこ鍋……」
「来たのは貴殿だ」
お市様が言う。
「ここに来たのは貴殿の足だ。だが、ここから先は貴殿の“選択”だ」
朱印状が置かれる。
氏真の朱印。
お市様の保護朱印。
条件は明確。逃げ場も明確。つまり、誤魔化しは効かない。
「僧になれば、生きて償える。民を殺さずに済む。寺を盾にせずに済む」
「……」
「そして――氏真殿の文化を、貴殿が守る側になれる。父として」
義元の瞳が揺れた。
“父”という言葉が刺さる。戦の言葉ではない。家庭の言葉だ。
雪斎の隣室から、かすかに咳払いが聞こえた。
あれは合図だ。
雪斎も、結論に近い。
義元は、拳を握った。太守の拳。
それが、少しずつ緩む。
「……剃るなら、雪斎の前で剃れ」
義元が言った。
「わしが逃げたと、あいつに言われたままでは……死んでも死ねぬ」
景虎姉上が、ほんの僅かに口元を上げた。
勝った笑いではない。
“人間が戻ってきた”のを確認する笑いだ。
お市様は立ち上がり、白衣の袖を整えた。
「よい。剃髪は儀式ではない。治療だ」
そして、義元に言う。
「痛いぞ。だが――生きる痛みだ」
鳴海の夜は、年の瀬の冷たさを増していた。
だが奉行所の座敷牢には、湯気があった。
ちゃんこ鍋の湯気。
そして――国が終わり、国が始まる、その境目の湯気。
狂犬記(桃の日記)
西暦1554年12月27日(天文23年 師走27日)
義元が鳴海に来た。
連れてきた、という言い方が正しい。
でも私は、運ばれてきたのは“人”ではなく、“時代の癖”のほうだと思った。
奉行所の座敷牢は静かだった。
静かすぎて、ちゃんこ鍋の湯気がやけに目立った。
生かしている。死なせない。
この戦の終わらせ方は、私の医師としてのやり方に近い。だから、胸が少し苦しい。
雪斎に会った。
目が鋭くて、心は疲れていた。
あの男は、強い。だが強いからこそ、折れたときに音が出る。私は、その音を聞きたくない。
義元に言った。髪を剃れ、と。
首を落とすより難しい。
権力の衣を脱がせるほうが、血が出ないぶん残酷だ。
でも、私は知っている。
人は、死ねば終わる。
生きれば、やり直せる。
やり直すには、まず自分を認めて、剃るしかない。
景虎姉上は容赦がない。
それがありがたい時もある。
私の甘さを、軍神が切ってくれる。諸葛亮でも赤子扱いする才は、戦だけでなく、人の迷いにも効く。
年の瀬。
鳴海の町は正月の支度で賑やかだ。
なのに私は、座敷牢で時代の髪を剃ろうとしている。
痛いだろう。
でも、生きる痛みだ。
明日も、私は白衣を着る。
鎧の上からでも、私は医師だ。




