144話 年の瀬、捕縛、そして「丸投げ」
西暦1554年12月25日(天文23年 師走25日) 尾張・鳴海/三河一円
あといくつ寝ると――お正月。
世間はそう数える。だが、狂犬家臣団の幹部たちは数えない。
数えるのは、土嚢の数。
川底の石の量。
徴発ではなく“同意”で集まった人足の人数。
そして――睡眠時間である。
「……お正月? なにそれ、美味しいの?」
誰かが冗談めかして言い、誰かが本気で頷いた。
ブラックである。極めて。
鳴海城の朝は早い。
城下の炊き出しの湯気と、帳簿の墨の匂いが、同じ空気に混じっていた。
■ 三河総合奉行・松平元康、走る
三河では、松平元康が走っていた。
文字通り、馬で。たまに自分の足でも。
旗本先手役200。
戦闘工兵として鍛えられた彼らは、いま――戦ではなく土を相手にしている。
「土嚢を積むな。まず、地面を読む」
元康が言うと、三河武士たちは顔をしかめた。
「殿、地面は敵じゃございませぬ」
「敵より手ごわい。地面は嘘をつかぬが、誤魔化しも効かぬ」
その言い方が、妙に“狂犬家臣団っぽい”のが腹立たしい。
酒井忠次が横で、苦笑いとため息を同時に出した。
「……殿、言葉がうつっておりますな」
「うつる。あの方の言葉は、薬のように効く。効きすぎて困る」
笑っている暇はない。
鳴海城からの命令は、いつも温度が高い。
――「三河が笑顔で溢れる大地にするのじゃ! 子どもを泣かすでないぞ!」
(※命令である。努力目標ではない。無茶ぶりである。)
参謀は、水野信元と、おだい。
この2人がまた、方向性が違うのに、同じ熱量でやる。
■ おだい、唐芋に燃える
おだいは最近、唐芋に取り憑かれていた。
「元康、聞いた? 唐芋はな、焼酎になるんよ」
「……は?」
「狂犬様が教えてくれた。火を入れて、麹を使って、時間を味方にするんよ」
“時間を味方にする”が、やたら強い。
農政の話なのに、戦みたいだ。
「酒はな、民の顔をほどく」
おだいは真面目な顔で言う。
元康は、真面目に頷いてしまってから、気づく。
――俺は何をしている。
だが、現場は笑う。
笑いが増えるのは、確かに良い兆候だ。
■ 水野、石像が生える
一方の水野信元は、知多・知田で人生最大の困惑を迎えていた。
なぜなら――石像が“生えた”。
「いや、待て待て待て! 誰が許した!」
農民たちは胸を張る。
「水野様のおかげで、畑が生き返ったで」
「年貢に怯えんでええって、村が息をしたで」
「せやから、石像は当然や」
当然ではない。
だが、止められない。
そして水野は、恥ずかしいのに少し誇らしい。
「……やめい。やめいと言うとるだろうが」
「ほんなら、銅像にします?」
「そういう話ではない!」
ツッコミが追いつかない。
三河・知多の現場は、狂犬式の速度で進む。
■ 三河家臣団、希望で胃が痛い
元康は、夜になると胃が痛くなる。
だが、今までの“人質の胃痛”とは違う。
希望があるのに胃が痛い。
未来が見えるのに胃が痛い。
「殿、顔色が悪いですぞ」
忠次が言う。
「違う。顔色が良すぎて怖い」
「……意味が分かりませぬ」
「分からなくていい。分かると胃が死ぬ」
三河家臣団は、狂犬家臣団の“底無しの明るさ”に当てられていた。
暗いときは、暗いなりに耐えられる。
明るすぎると、責任が重く見える。
それでも――走る。
村を回る。
寺を回る。
城を回る。
「無税」を合言葉に、書面の約定を積み上げる。
それは、戦より怖い。
だが、戦より価値がある。
■ 鳴海城に入った一報
その日、鳴海城に飛び込んできた知らせは、城中の空気を変えた。
「今川義元、捕縛――!」
届けたのは、息を切らした伝令。
背中は泥だらけ、目が笑っていない。
報告の重さが、そのまま体に出ている。
奥三河。
忍び6人が、粘り強く、しつこく、諦めず――調略と交渉を重ねた結果、
野田・長篠は「狂犬に従う」と書面を出した。
そして――吉田も降伏開城。
三河統一が、形になった。
「……終わったのか」
元康が呟くと、忠次が首を振った。
「殿、終わりではございませぬ。次が始まっただけです」
「知ってる。知ってるから胃が痛い」
遠江・駿河。
残るはそこだ。
今川氏真の朱印は、すでに手にある。
藤吉郎と蜂須賀小六が、調略へ出ていった。
「藤吉郎は、朱印を“札”ではなく“刃”として使う」
元康が言うと、忠次が嫌な顔をした。
「刃は血が出ますぞ」
「出さずに勝つのが、狂犬の流儀だ。……たぶん」
“たぶん”が付くあたり、狂犬家臣団の現場はいつも綱渡りだ。
鳴海城の天守に、冬の風が当たる。
その風の冷たさだけが、年の瀬を思い出させた。
あといくつ寝ると、お正月。
その前に――あといくつ越えると、次の国。
狂犬記(桃の日記)
西暦1554年12月25日(天文23年 師走25日)
年の瀬は、町が浮き立つものだと聞いた。
でも鳴海は、浮き立つというより、走っている。
元康は走る。忠次も走る。
水野は石像に追いかけられ、おだいは唐芋に恋をしている。
三河が笑っているのに、本人たちの胃が痛いのは、たぶん真面目だからだ。
今日、義元捕縛の報が入った。
勝った。三河をまとめた。
それでも私は、胸の奥が少し重い。
死者の名を読み上げた日の、あの沈黙がまだ残っているから。
私は医師だから、勝利の声より、置き去りにされた命の重さを先に数えてしまう。
だけど、元康が村を回って、子どもが泣かない国にすると言った。
あれは、戦より難しい。
だから、価値がある。
次は遠江と駿河。
朱印は薬にもなるし、毒にもなる。
藤吉郎と小六が、毒にしないで帰ってくるように――私は祈る。
年の瀬の空は冷たい。
でも、ここには火がある。
人が笑う火。
その火を消さないために、私は明日も帳簿と薬箱を持って歩く。




