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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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143話 現場検証 ある兵法家の日記 武田じゃし


西暦1554年12月13日(天文23年 師走13日) 刈谷城下

刈谷の城下は、戦が終わってなお、妙に明るい。

血と泥の匂いがまだ残るのに、店が開き、声が飛び、子どもが走っている。

――おかしい。

戦の後とは、もっと静かで、もっと貧しいものだ。

武田信虎は、湯気の立つ茶碗を握ったまま、眉間に皺を寄せた。

「……狂犬め。戦の後ですら、商いを止めぬか」

小春が、黙って椀に汁を足す。

虎春と小虎は、親子丼に顔を近づけ、目を丸くしていた。

「父上、これ、うまいです」

「小虎も、こんな柔らかい卵、初めて……」

「うむ。甘味も正義だが、親子丼も正義じゃ」

信虎は言いながら、ふと箸を止めた。

今日、ここにいる理由は味見ではない。兵法だ。

「……よし。書くか」

懐から小さな帳面を取り出す。表紙には墨で一言。

――兵学日記。

だが、筆先が止まる。

目を閉じると、数日前の光景が、勝手に胸の奥から蘇ってきた。

(回想)

西暦1554年12月5日(天文23年 霜月下旬) 緒川港~猿渡川戦場

時は数日遡る。

猿渡川の合戦の日。

緒川の港。潮の匂いと、板の軋む音。

その沖から――船影が現れた。

「……来たか」

武田信虎が、細めた目で見つめる先。

無数の早船。軍装。旗。

そして、中央の船から降り立つ男。

織田信長。

「後詰め決戦、確定」

信虎は、小さく断じた。

ここで決まる。ここで終わる。

あるいは――ここから始まる。

「虎春、小虎。小春。急げ。戦場へ行く」

「父上、いま戦場へ? 危のうございます」

「危ういから行くのだ。兵法家は、勝っても負けても現場を見る」

虎春と小虎は顔を見合わせ、嬉しそうに頷いた。

子どもは戦を“英雄譚”として見がちだ。

信虎はそれを知っている。だからこそ、見せる。

戦場近く。

風が変わる。血の匂いが混じる。土が重い。

そこで信虎が見たのは――

野戦築城と、火縄銃。

土嚢。

積む。

伏せる。

撃つ。

また積む。

弓が降る。

だが、土嚢が受ける。

「……相性が良すぎる」

信虎の喉が鳴った。

火縄銃は、再装填が遅い。煙で視界が潰れる。雨に弱い。

欠点だらけの“未熟な兵器”のはずだ。

それが――

土嚢の壁で守られ、射線を確保され、

前進しながら築かれ、撃ち、崩し、また築かれ、

まるで完成兵器のように回っている。

「父上、火の棒が、雷みたいです!」

「虎春、よく見よ。あれは雷ではない。距離と時間だ」

信虎は子どもに言い聞かせながら、足元の土を拾い、歩幅を測った。

「戦は、勢いではない。

 10歩進むか、3歩進むかで、次の10秒が変わる。

 その10秒が、命の数を変える」

虎春は息を呑み、小虎は唇を噛んだ。

小春は黙って、信虎の背を見つめている。

その時だった。

敵陣の旗が、信虎の視界に刺さった。

狂犬旗。葵。

それは分かる。

だが、もう1つ。

白地に黒々と――

毘。

「……なぜ、毘沙門天がここに?」

信虎の胸の奥が、ぐちゃりと音を立てた。

毘。

軍神。

武田が、いつか背負うはずだった象徴。

それが、ここにある。

火縄銃の運用。

野戦築城。

そして、毘。

「晴信……」

息子の名が漏れた。

追放されて14年。

甲斐は、もう晴信の国だ。

信虎はそれを理解しているつもりだった。

だが、この瞬間だけは、どうしても飲み込めなかった。

「武田が……わしの武田が……」

言葉が崩れる。誇りが崩れる。心が崩れる。

ぐちゃぐちゃになりそうだった。

その時、すっと指が絡んだ。

小春が、信虎の手を握っていた。

温かい。余計な言葉がない。

「……助かる、小春」

「……」

「すまない」

信虎は我に返る。

――武田じゃし。

武田は、泣き言を言ってはならぬ。

だが、武田であっても、人は人だ。

小春の手の温度が、それを許した。

戦は続く。

信虎は戦場から目を離さず、子どもたちに言う。

「見ろ。兵は腹で死ぬ。

 あの狂犬め、戦飯まで用意しておる……煎餅だと? 蒸し羊羹まで?」

虎春と小虎が、なぜか真顔で頷く。

「父上、戦は甘味ですか?」

「違う。だが、甘味は兵を歩かせる。……覚えておけ」

信虎は、悔しさを飲み込みながらも、認めてしまう。

狂犬の兵站。狂犬の統治。狂犬の心理戦。

これは武将のやり方ではない。

“国の作り方”だ。

(現在)

西暦1554年12月13日(天文23年 師走13日) 刈谷城下

信虎は帳面に筆を走らせた。

しばらく信虎たちは刈谷城下に滞在し、

息子と娘に軍学講義をしながら、戦場を測量し、記録し、絵に起こすことにした。

土嚢の配置。

射線。

前進の幅。

川の地形。

兵の流れ。

虎春は必死に写し、小虎は異様に鋭い目で地面を見ている。

小春は、炭を足し、湯を沸かし、紙を乾かした。

夜。信虎はふと笑った。

「わしの風景画は、雪舟に勝るぞ」

完全な自画自賛だ。

だが、その笑いは、どこか少しだけ救われていた。

負けたくない。

悔しい。

それでも――

兵法は、次へ渡さねばならぬ。

「……武田じゃし」

そう言って、信虎はまた筆を取った。

狂犬記(桃の日記)

西暦1554年12月13日(天文23年 師走13日)

信虎が刈谷にいる。

兵法家は、勝ち負けより先に、地面を見る。

土嚢の跡を測って、射線を確かめて、歩幅を数える。

あの人の目は、戦の“物語”ではなく、戦の“仕組み”を追う。

私は医師だから、戦場は治療の結果でもある。

土嚢は盾であり、火縄銃は針であり、兵站は薬だ。

薬が効けば、死者は減る。

減らないなら、私の負け。

信虎は悔しそうだった。

でも、小春の手を握り返していた。

あれでいい。武田でも、人は人だ。

次の冬も、戦は続く。

だから私は、次の薬を用意する。

生き残るための国を、作るために。

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