142話 三河統一
西暦1554年12月13日(天文23年 師走・冬)
冬の空は低い。
三河の風は硬い。骨の間に入り、息を白くし、言葉を短くする。
猿渡川の戦から、まだ日が浅い。
だが国は、戦の余韻など待ってくれない。
勝った者は走り、負けた者は崩れ、民は「次の暮らし」を選びにかかる。
そしてこの国では、選ぶ言葉が決まっていた。
――無税。
それは甘い夢ではなく、重い契約だった。
税が無い代わりに、治水治山に出る。
村ごと逃げずに、村ごと生きる。
狂犬堂が買い取る代わりに、作る責任を持つ。
武士の戦が終わっても、農の戦は続く。
その理屈を、最初から叩き込まれているのが――狂犬家臣団だった。
■ 景虎姉上、帰還。火縄銃隊300も引き上げ
岡崎から鳴海へ戻る行列は、戦勝のそれではない。
静かな学びの行列だ。
白頭巾の景虎姉上が先頭。
藍色の特製南蛮鎧――お市様の手製が、冬の光を吸い込むように沈む。
愛馬・三泊流星 青鹿毛の雪風は、歩みが正確で、音が少ない。
火縄銃隊300は、余計な声を出さず、火薬も湿らせず、隊列を崩さない。
すでに「兵」ではなく「技術」になりつつある。
鳴海に入ると、景虎姉上は馬を降りて、いきなり机に向かった。
帳簿、作付け、川筋、港の船数、米の出入り、塩の値。
藤吉郎が呆れた顔をする。
「姉上、戦が終わったんですよ」
景虎姉上は顔も上げずに言った。
「戦は終わった。だから今、勝ちを固定する」
「固定……」
「勝ちは、放っておくと逃げる。金と同じ」
藤吉郎が変な顔でうなずく。
「……それは、わかる」
景虎姉上は淡々と続ける。
「農政と商業は、兵站の延長。兵站は、戦の延長。全部、同じ線の上」
そこで初めて、元康の顔が浮かぶように、視線を少しだけ外へ向けた。
「元康は今、線の上を走っている。倒れないか、気になる」
利家が横から口を挟む。
「姉上、元康は真面目すぎて倒れます」
景虎姉上は即答した。
「だから倒れない配置にする。人も兵も、配置で生きる」
その言い方が、諸葛亮どころか天気の話みたいで、藤吉郎は背筋が冷えた。
■ 藤吉郎・利家・慶次、兵700で「無税」の調略行脚
一方、三河の道には、別の風が走っていた。
藤吉郎、利家、慶次。
兵700を率いて、村を、町を、城下を回る。
やることは、単純で地味で、だが最強だ。
無税を合言葉に、書面で約定を取り付ける。
村役人の家で、藤吉郎が座布団の上で頭を下げる。
「年貢を取らん。だが治水治山は一緒にやる。子どもは寺子屋へ行かせる。村は村で守る」
役人が疑う。
「……そんな話、信じろと?」
利家がすっと前に出る。
「信じなくていい。紙に書け。破ったら、次は“わかりやすく”なる」
「利家、脅してる!」藤吉郎が慌てて肘でつつく。
「脅してない。現実を説明してる」
慶次が笑って茶を啜る。
「現実はだいたい脅しだよな」
村の老人がぼそりと言う。
「今川は、取る。狂犬は、取らぬと言う。……何を取る?」
藤吉郎が指を折る。
「時間を取る。手間を取る。共同で堤を作る。山を守る。
その代わり、飢えを取る。恐怖を取る。借金を取る」
老人が目を細めた。
「……なるほど。こっちの方が働く量は増える」
利家が頷く。
「だが、死なない」
慶次が付け足す。
「あと、飯がうまい。狂犬印の蒸し羊羹、持ってくか?」
こうして、約定が増える。
三河は、武力で落ちない。
契約で落ちる。
残るのは、吉田城と、奥三河――野田、長篠。
「城」ではなく、「最後まで今川に縛られている結び目」だった。
■ 忍び6人、野田・長篠へ。義元差し出しを迫る
野田と長篠には、忍び6人が入った。
さくら、あやめ、せつな、こゆき、つらら――そしてもう1人。
影の名前は、必要な時だけ出ればいい。
狙いは2つ。
城を“味方にする”こと。
そして――義元を差し出させること。
「義元を匿えば、今川は城ごと飢える」
あやめの声は冷たいが、筋が通っている。
「差し出せば、城は生きる」
せつなが笑う。
「義元の首じゃない。義元“本人”な。首はあと」
さくらが小さく舌打ち。
「首は取らんって言われてる。……けど、蹴りは取る」
こゆきが息を吐く。
「寒い……奥三河は、寒い」
つららが淡々と返す。
「寒さは敵じゃない。迷いが敵」
忍びは、戦場を作らない。
決断を作る。
■ 吉田城へ、元康と旗本先手役200
吉田の調略は、元康に任された。
酒井忠次、旗本先手役200と共に。
旗本先手役は、戦闘工兵だ。
土嚢、杭、狭間、盾、通路、火縄銃の射線。
彼らが動くと、野原が“城”になる。
忠次が小声で言う。
「殿、吉田は意地が強い。今川の看板が残っております」
元康は頷いた。
「だから、言葉で落とす。……落ちなければ、次は道を落とす」
「道、ですか」
「道が死ねば、城は座敷牢になる。岡崎で学んだ」
忠次は、殿が“学んでしまった”ことを内心で恐れ、同時に嬉しかった。
学んだ殿は、止まらない。
■ 熱田。お市様は「氏真」を取りに行く
その頃、お市様は熱田に戻っていた。
阿国、寧々、まつと一緒に。
戦場から一転、芸能と香と太鼓と笛。
だが、お市様にとってはここも戦場だ。
刀が言葉になっているだけ。
今川氏真――蹴鞠殿は、熱田で妙に生き生きしていた。
阿国の踊り。連歌。絵。茶の湯。蹴鞠。
“武の当主”になる気がない男が、ようやく呼吸できる場所。
寧々が小声で言う。
「……あの人、顔が明るい」
まつが腕を組む。
「明るい場所に置いたら光るタイプ。暗い場所に置いた今川が悪い」
阿国が笑う。
「殿はね、舞台に置くと勝手に踊るよ」
お市様は氏真に会いに行き、座るなり言った。
「氏真。取引だ」
氏真が蹴鞠を撫でながら、目だけで返す。
「取引……戦の話は嫌だぞ」
「戦ではない。朱印の話だ」
氏真の眉がわずかに動く。
朱印は、戦より重い。
お市様は淡々と提示する。
「わらわが、お前を熱田で保護し後援する。文化芸能を極めろ。
代わりに、駿河・遠江について“勝手次第”の朱印を出せ」
「……勝手次第?」
「今川の名で、今川の領内を動かす許しだ。
戦を減らす。取引を増やす。逃げ道を作る。お前の名は、これから“命を助ける札”になる」
氏真が苦笑した。
「……俺に、そんな刃物みたいな仕事をさせるのか」
お市様は即答する。
「刃物ではない。筆だ」
阿国が横で囃す。
「蹴鞠殿、筆で蹴るの?」
氏真が思わず突っ込む。
「蹴らねぇよ!」
まつが冷静に言う。
「蹴る。政治は蹴鞠」
寧々が叫ぶ。
「まつ、それは意味違う!」
氏真は笑った。
笑ってしまった時点で、半分落ちている。
お市様は最後に、もう1枚置く。
「わらわも朱印を出す。
“氏真を保護する朱印”だ。
お前に手を出す者は、今川でも織田でも、わらわが潰す」
氏真は、その瞬間だけ真顔になった。
保護とは、甘やかしではない。
庇護とは、責任だ。
氏真は小さく息を吐き、言った。
「……出す。
ただし条件がある。阿国の舞、俺にも教えろ」
阿国が笑う。
「よろしゅう。蹴鞠殿、腰が大事よ」
こうして、駿河と遠江に“風穴”が開いた。
刀ではなく、朱印で。
狂犬記(桃の日記)
天文23年 師走 12月13日 熱田
三河は、落ちる。
戦で落とすのではない。契約で落とす。
無税は餌ではない。責任の形だ。
景虎姉上が鳴海で帳簿を睨んでいる。
戦が終わっても、勝ちを固定するために学ぶ。
あの人は、軍神で、先生で、たぶん怪物だ。
元康が横にいると、姉上は少しだけ柔らかくなる。そこが怖い。
藤吉郎と利家と慶次が、村を落としている。
落としているのに、殺していない。
書面で落としている。
戦より恐ろしい。けれど、これが私の欲しい勝ち方だ。
私は熱田で、氏真を取りに行った。
蹴鞠殿は、文化の中で生きている。
生きている者は使える。
使うという言葉は冷たい。
けれど、朱印は命を助ける。なら、使う。
戦は、刀だけじゃない。
朱印も、鍋も、寺子屋も、堤も、全部戦だ。
私は医師だから、勝ち方を選ぶ。
死者が減る勝ち方を。
次は吉田。奥三河。
影が動く。
表が動く。
三河は、私の治療になる。




