141話 岡崎入城
西暦1554年12月6日(天文23年 師走・冬)
三河・岡崎の朝は、冷たかった。
霧が低く垂れて、川面が白い。昨日の猿渡川の血と硝煙が、土の奥にまだ残っている気がする。
戦は終わった。
けれど、終わった「だけ」だった。
城下に入る道は、踏み固められた泥と、折れた矢と、捨てられた草履で、戦の後をそのまま見せていた。
遠くで烏が鳴く。兵たちの咳が混じる。
「……三河の冬は、尾張より骨に来るな」
藤吉郎が肩をすくめると、利家が鼻で笑った。
「寒さに文句言う前に、顔を文句ないようにしろ。お前、昨日から凍った魚みたいな顔だぞ」
「魚はうまいからええやろ!」
「うるさい。お前は煮ても焼いても味が濃いだけだ」
慶次が、後ろからすっと割り込んでくる。
笛を口に咥えたまま、軽く言った。
「……喧嘩は後で。城、空っぽの匂いがする」
その言葉で、空気が締まった。
■ 岡崎城、裏門から逃走
岡崎城は、静かすぎた。
守る気配が薄い。矢狭間も、見張りの影も、動かない。
「……逃げたな」
景虎姉上が、白頭巾の奥で目を細める。
松平元康が喉を鳴らした。
「城代は……まさか」
「まさか、ではない」景虎姉上は淡々と、けれど優しく言った。
「“城は石で守るものではない。人で守るものだ”――人が逃げた城は、ただの箱。今川は、箱ばかり集めて中身を失った」
元康は、その言葉の重さを飲み込むのに少し時間がかかった。
その時、前方の同心が叫ぶ。
「裏門より逃走! 城代、逃げました!」
「追うな」
狂犬お市様の声が、冬の霧を割った。
馬上の姿は、相変わらず異様だった。
凶悪なガントレット。ド派手な鎧。
そして、その上から医師の白衣。
白は汚れているのに、白であることをやめない。
「逃げる背を追えば、城下が荒れる。民が巻き込まれる。
城を取る。城下を取る。民を取る。命を取るのは、その後だ」
利家が小声で呟く。
「姫様、言い方が物騒すぎる」
藤吉郎が即ツッコミ。
「利家、お前の顔よりマシや」
「殴るぞ」
「殴ってから縫うのが姫様の流儀や!」
慶次が笑って、槍を肩に担ぎ直す。
「縫う前に、俺は殴る。派手に」
■ 報告:義元行方不明、雪斎生け捕り
城門が開かれた瞬間、戦の続きのように報告が飛び込んできた。
「今川義元――逃走、行方不明!」
「大原雪斎――逃走するも、織田の兵により生け捕り!」
「……雪斎が?」
元康が息を呑む。
大原雪斎――今川の頭脳。その名を知らぬ三河者はいない。
そこへ、織田の旗が見えた。
そして、馬上の信長。にこにこしている。
戦場の信長は、胃が痛くない顔をしている。
「お市!」
信長が手を振った。
「雪斎は縛った。生け捕りだ。首は取るな、って言っただろ。ちゃんと守ったぞ」
「守るところ、そこなの?」
お市様が即座に返す。
信長が笑う。
「そこだ。首を取ったら終わる。生け捕りは、続きができる。戦は“続き”が本番だ」
藤吉郎が、信長の横に並ぶ丹羽長秀を見て、囁く。
「長秀どの、胃、大丈夫か?」
丹羽長秀が真顔で返した。
「戦の時だけ大丈夫。終わったらまた痛い」
「信長様、便利すぎる体質やな……」
縄付きの雪斎が引き立てられてくる。
目だけは、鋭いままだ。
雪斎が狂犬旗を見る。
そして、お市様の白衣を見る。
「……医師が、兵法を振るうか」
お市様は、静かに返した。
「兵法が先ではない。治すために戦う。
“治せぬ病”は、原因から断つしかない」
雪斎が、わずかに口角を動かす。笑いではない。認めたのだ。
■ ちゃんこ鍋が届く:兵站が勝利を作る
岡崎に入っても、戦は終わらない。
腹が減れば、兵は折れる。
折れた兵は、死ぬ。
死んだ兵は、治せない。
だから――兵站。
城内の庭に、湯気が立った。
鍋の匂いが、凍った空気を押しのける。
「着いたー! 岡崎まで通したー!」
寧々が叫ぶ。
まつが腕を組む。
「鳴海から刈谷、刈谷から岡崎。道を押さえたら、鍋は勝つ」
寧々が睨む。
「鍋に勝ち負け持ち込まんといて!」
「持ち込む。兵站は勝負だ」
「ほんまにこの人、鍋で戦する……」
兵たちが椀を受け取り、無言で啜る。
次の瞬間、ため息が漏れた。
「……生き返る」
「生き返ったら、明日も動け」
まつの声が容赦ない。
寧々が即ツッコミ。
「まつ! 今くらい優しさ出し!」
「優しさは味噌に溶かした」
「溶かしすぎや!」
利家が、蒸し羊羹を頬張りながら言う。
「戦飯は煎餅と羊羹。狂犬印、強いな」
藤吉郎が得意げに胸を張る。
「わしが仕入れルート作った」
「お前、戦より商売が生き生きしてるぞ」
「戦も商売も同じや。金と命の流れを止めたら負ける」
景虎姉上が、元康の横で小さく頷く。
「その通り。兵站は血管だ。止まれば国は死ぬ」
元康が、素直に答える。
「……学びます、姉上」
慶次が横から茶化す。
「元康、学ぶ前に食え。顔が蒼い」
元康が苦笑する。
「……食べます。生きるために」
■ 死亡90名、傷病140名
鍋の湯気が、少し落ち着いた頃。
名簿役が膝をつき、声を絞る。
「戦死……90名。傷病……140名」
言葉が置かれた瞬間、庭の音が消えた。
お市様は、目を閉じた。
そして短く言った。
「名を」
名簿役が読み上げる。
一つ、また一つ。
名が出るたび、お市様は頷く。
言葉はない。頷きだけが弔いになっている。
藤吉郎が、唇を噛んだ。
「姫様……勝ったのに」
お市様は、目を閉じたまま答える。
「勝っても、死者が出れば、医師としては負けだ」
利家が拳を握る。
「姫様……」
「……次は、減らす。必ず」
景虎姉上が、元康に小声で講義する。
戦場と同じ口調だ。
「元康。勝利とは、敵を倒すことではない。味方を生きて帰すことだ。
数字が減るほど、勝ちは重くなる」
元康は震える息で答えた。
「はい……姉上」
■ 明後日から吉田へ:三河統一へ進む
夜。岡崎の一室。
風が障子を揺らす。
お市様が元康に告げる。
「明後日まで岡崎にいる。明後日から吉田まで進軍し、三河を統一する。
そのつもりで休め」
元康が思わず聞き返す。
「休め、と……?」
「休め。死ぬぞ」
「……死にますか」
「死ぬ」
即答だった。
元康は、胸の奥が熱くなった。
命じられているのは無理ではない。生きろ、という命令だ。
■ 忍び、義元を追う
その頃、岡崎の影。
さくら、あやめ、せつな、こゆき、つらら。
諜報員の通報が届く。
「義元、野田城へ落ちた。生きている。護衛薄い」
さくらが口を曲げる。
「逃げ足だけは一級品やな、海道一の弓取り」
あやめが冷静に言う。
「目的は捕縛。首は取らない」
せつなが笑う。
「取らない。……取らないけど、蹴る」
こゆきが小声で続ける。
「寒い……野田、もっと寒い」
つららが締める。
「寒さは敵じゃない。時間が敵」
5人は、音もなく消えた。
戦の“続き”は、影が運ぶ。
狂犬記(桃の日記)
天文23年 師走 12月6日 岡崎
岡崎に入った。城は取れた。
雪斎は生け捕り。義元は消えた。
勝ったはずなのに、胸が重い。
名を聞いた。90。140。
数字は冷たい。けれど名前は熱い。
頷くしかできなかった。
医師としては、負けだ。守れなかった命がある。
寧々の鍋が、兵を生かした。
まつの段取りが、道を生かした。
湯気を見た時だけ、勝ったと思えた。
“食べて笑える”のが、私の欲しい勝ちだ。
明後日から吉田へ行く。三河を統一する。
元康に休めと言った。
休め。生きろ。
死ぬな。死なせない。
義元は野田へ逃げたらしい。
影が動いた。
影が動く夜は、朝が近い。
私は、殴って、縫う。
治すために戦う。
狂犬の流儀は、今日もそれだけだ。




