140話 猿渡川の戦い にげる義元
西暦1554年12月5日(天文23年 師走・だいたい)
三河・刈谷城外 猿渡川
戦場が、壊れた。
それは敗走ではない。
崩壊だった。
狂犬家臣団は、全軍全速力。
もう陣形も、号令の細かな確認もない。
ただ一つ。
――前へ。
■ 狂犬家臣団、走る
「腹が減ったら、煎餅食えー!!」
誰かが叫び、誰かが笑う。
狂犬家臣団の戦飯は、煎餅。
袋を破り、走りながら噛み砕く。
「うお、硬ぇ!!」 「それがええんや!!」
中には、
**狂犬印団子屋・新商品“蒸し羊羹”**を頬張りながら走る者までいた。
「甘っ!!」 「今それ食うか!?」
戦場なのに、会話がある。
笑いがある。
余裕がある。
それが――今川には、なかった。
■ 軍神、突撃講義中
中央。
長尾景虎は、馬上で羊羹を頬張っていた。
「……うむ、悪くない」
隣で、松平元康が目を見開く。
「景虎殿!? 戦場ですぞ!?」
「だからよ」
景虎は手短に言う。
「血糖値は大事。
判断力は、糖で決まる」
そう言って、馬の腹を蹴る。
「元康、突撃よ。
遅れたら死ぬ。
だから――ついてきなさい」
「は、はい!!」
軍神は、戦を教えながら突撃していく。
■ 道を開ける者
前方。
前田慶次がいた。
「どけどけぇ!!
姫様のお通りやぞ!!」
慶次は道を空けながら突っ込む。
手にしているのは、刃先が潰れた槍――
ほぼメイス。
馬上から、振る。
ゴン。
鈍い音。
「うわぁ!!」 「痛ぇ!!」
切れない。
だが、めちゃくちゃ痛い。
「殺さん!!
けど、立てんようにはする!!」
慶次は笑いながら、叩き続ける。
■ 狂犬、中央突破
その奥。
狂犬お市様。
凶悪なガントレット。
ド派手な鎧。
その上から、医師の白衣。
白衣が風を切り、血を跳ねる。
馬上から、叩く。
殴る。
蹴る。
「道を空けよ!!」
誰も止められない。
その視線の先に――
義元と雪斎が、見えた。
■ 見えた
「……見えた」
お市様の声が低くなる。
慶次も気づく。
「あれ、義元や!!
雪斎もおる!!」
距離は、縮まる。
「捕れ!!」 「生け捕りや!!」
その瞬間。
義元の顔が、歪んだ。
■ にげる義元
「……逃げるぞ!!」
義元は叫び、馬に飛び乗った。
恐怖。
混乱。
理解。
これは、負けだ。
「退け!!
退けぇぇ!!」
馬の腹を蹴り、全速力で逃げる。
雪斎は、一瞬だけ義元を見た。
そして――
「別れるぞ」
逆方向へ、馬首を向けた。
生き残るための判断。
だが、それは同時に――
今川の終わりだった。
■ 総崩れ
「義元が逃げた!!」 「本陣が崩れた!!」
叫びが連鎖する。
今川の兵は、武器を捨て、
盾を捨て、
走り出す。
誰も止めない。
誰も追いつけない。
狂犬家臣団は、前へ進むだけ。
戦は、終わった。
狂犬記(桃の日記)
天文23年 師走 12月5日
逃げる義元を見て、思った。
――ああ、もう終わったな。
大軍でも、名門でも、
腹が空いて、心が折れたら終わり。
煎餅を食べながら突撃できる軍と、
恐怖で馬に飛び乗る太守。
勝負は、最初から決まっていた。
景虎姉上は、戦場で講義をしていた。
慶次は、楽しそうに叩いていた。
私は、医師として、終わらせに行った。
狂犬は、噛みつく。
だが、逃げる背中までは、追わない。
――生きて帰れ。
その恐怖を、抱えたまま。




