139話 猿渡川の戦い 狂犬お市様 突撃開始
西暦1554年12月5日(天文23年 師走・だいたい)昼すぎ
三河・刈谷城外 猿渡川
戦は、長引いていた。
朝から続く弓合わせ、銃声、怒号。
今川の陣は大軍だが、兵の顔色は明らかに変わっていた。
疲れ――
それも、隠せない疲れだ。
農民兵は鍛えられていない。
重い槍、濡れた草地、冷えた空気。
足が止まり、肩が落ち、視線が泳ぐ。
隊列の中央。
ほんのわずか――人1人分の隙間が、空いた。
それを、狂犬は見逃さない。
■ 狂犬の目
狂犬お市様は、最前線にいた。
凶悪なガントレット。
ド派手な戦鎧。
その上から、医師の白衣。
白衣はすでに血と煤で汚れているが、
それでも“医師”の形を捨てていない。
お市様は、中央を見据えた。
「……来た」
短く、低い声。
■ 全軍号令
次の瞬間、その声が戦場を裂いた。
「全軍、聞け!!」
味方も敵も、一瞬だけ動きが止まる。
「中央に穴が空いたぞ!」
ざわめく今川陣。
利家が叫ぶ。
「姫様! 確かに中央、崩れ始めてます!」
藤吉郎が続く。
「今なら行けます! 今しかない!」
お市様は、即断した。
「――打ち方、やめ!」
火縄銃の轟音が止む。
一瞬の静寂。
今川の兵が、思わず息をついた――その瞬間。
「今こそ、突撃ぞ!!」
空気が爆ぜた。
「慶次!!」
前田慶次が、馬上で笑う。
「待ってましたや!!」
「突撃じゃ!!」
「おう!!」
「義元を――生け捕れ!!」
その言葉に、今川側の顔色が変わる。
“首ではない”
それは、恐怖そのものだった。
「全速前進!!」
お市様が、豊臣号の腹を蹴る。
「われに続け!!」
■ 豊臣号、前へ
豊臣号が跳ねる。
重く、力強く、大地を踏み割る。
白衣が翻り、
鎧が鳴り、
ガントレットがきしむ。
抜刀隊が続く。
慶次の騎馬が吼える。
利家と藤吉郎の槍隊が左右から押し固める。
今川の中央に、穴が広がる。
「来るぞ!!」 「止まれ!!」 「止まらん!!」
悲鳴が混じる。
お市様は馬上から叫ぶ。
「下がるな!
下がれば死ぬ!
進めば、生きる道がある!!」
医師の言葉だった。
そして、狂犬の命令だった。
■ 左右、同時突破
そのとき――
左翼。
信長が、前に出ていた。
胃が痛いはずの男は、戦場では冴えきっている。
自ら槍をしごき、馬上で叫ぶ。
「前へ!!
前へ出ろ!!
立ち止まるな!!」
織田の兵が吼え、今川左翼が崩れる。
右翼。
柴田権六勝家が、力任せに突っ込む。
「かかれ!!
かかれ!!
押し潰せぇぇ!!」
豪腕が振るわれ、今川右翼が耐えきれず割れた。
■ 中央、噛み破られる
左右が崩れ、中央が裂ける。
今川の陣形は、形を失った。
お市様の突撃は、止まらない。
「行くぞ!!
恐れるな!!
恐怖は、敵にくれてやれ!!」
狂犬が、今川の腹を――噛み破った。
狂犬記(桃の日記)
天文23年 師走 12月5日 昼すぎ
戦は、数字では決まらない。
だが、疲れは嘘をつかない。
今川の中央に空いたのは、人の穴。
だが実際に空いたのは、心だった。
だから、打ち方を止めた。
一瞬の静けさで、敵に「助かった」と思わせた。
その次に、全部を奪う。
私は医師だ。
だから、終わらせる時は一気に終わらせる。
信長兄上は左を噛み、
権六は右を壊し、
私は中央を噛み破る。
首は要らない。
生きた義元が、今川を殺す。
狂犬は、そうやって戦う。




