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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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138話 猿渡川の戦い 狂犬、噛み破る

西暦1554年12月5日(天文23年 師走上旬・だいたい)昼

三河・刈谷城外 猿渡川

猿渡川の水面が、鈍く揺れていた。

冬の光は弱く、川霧が低く這い、視界は白い。

だが――

戦場だけが、異様に“熱い”。

硝煙。

汗。

鉄の匂い。

そして、太鼓。

■ 信長、笑う。胃が痛くない信長

遠方、森の切れ目から――

織田の旗が、増える、増える、増える。

まるで地面から湧き出るように。

回り込み、回り込み、今川の背後へ。

織田信長は、にこにこ笑っていた。

「よし、閉じたな」

普段は「胃が痛い」と家臣に愚痴る男が、

戦になると、別人になる。

信長は、全軍に向けて声を張り上げた。

「首は取るな! 撫で斬りだ!

義元と雪斎は、必ず生け捕りにしろ!」

伝令が一瞬固まる。

「殿……撫で斬りで、生け捕りは……」

「知らん。考えろ。

――それが戦だ」

信長は、笑顔のまま叫ぶ。

「全速前進!

われに生命を預けよ!

突撃じゃあああ!!」

太鼓が増えた。

螺旋のように、包囲が締まる。

――迂回包囲、完成。

■ 今川本陣 撤退の太鼓

今川義元と雪斎は、撤退の太鼓を打たせた。

ドン。

ドン。

ドン。

隊列を崩すな。

背中を見せるな。

一歩ずつ、下がれ。

じりじりと、じりじりと。

だが――

義元の顔に、はっきりと恐怖が浮かび始めていた。

「……おかしい」

雪斎は歯を食いしばる。

「殿。

これは……“退かされている”のではなく……

“獲られに行かされている”」

義元の喉が鳴った。

■ 軍神の講義 戦は距離と時間

中央。

長尾景虎は、青鹿毛の愛馬・三泊流星 雪風に跨り、

白頭巾をきっちりと巻き、

お市が作った藍色の特製南蛮鎧を纏っていた。

そのすぐ横に、

松平元康と酒井忠次。

火縄銃の轟音の中でも、

景虎の声は、驚くほど冷静だった。

「元康。見るのよ」

「は、はい!」

「今川は撤退に入った。

撤退とは、背中を見せるということ」

元康の喉が鳴る。

「追うのですか!? 走りますか!?」

景虎は即座に首を振った。

「走らない。

走れば隊列が崩れる。

崩れた瞬間、人は死ぬ」

景虎は指を立てる。

「開戦から、ずっと3歩前進だった。

撃つ、3歩。撃つ、3歩。

――これは“生きるための歩幅”」

元康は息を呑む。

「だが今は違う」

景虎の目が、細く鋭くなる。

「撤退する敵に対し、

圧をかけるには“速度”ではなく“間”を変える」

景虎は命じた。

「火縄銃隊。

前進射撃、3歩から5歩へ変更」

元康が思わず叫ぶ。

「たった2歩で、何が変わるのですか!」

景虎は即答した。

「距離と時間。

2歩で、敵の呼吸が狂う。

2歩で、判断が遅れる。

それで十分」

号令が飛ぶ。

「三段、早合、前進!

撃て! 進め! 撃て!」

――5歩前進。

たった数メートル。

だが、その数メートルが、致命的だった。

■ 狂犬、噛み破る

前列。

狂犬お市様は、

凶悪なガントレットとド派手な鎧。

その上に、医師の白衣を纏っていた。

白衣は、もはや白くない。

泥と血と硝煙で、灰色に染まっている。

阿国が隣で叫ぶ。

「先生! 今日の診察、多すぎません!?」

「生きておるなら診察じゃ!」

お市は、刀を構え、号令を放つ。

「わらわに続け!

ゆるり、ゆるり――

噛み千切るように前進じゃ!」

抜刀隊が、景虎の前を切り拓く。

利家が右翼を支え、

藤吉郎が左翼で踏ん張る。

慶次の矢が、今川の動きを縫い止める。

そして――

5歩前進射撃が、今川中央を抉った。

穴が、開く。

小さな穴。

だが、広がる穴。

雪斎の目が見開かれる。

「……中央が、割れる!」

義元の顔から、血の気が消えた。

「……噛み破られた、か」

狂犬は、止まらない。

急がず、乱れず、

ただ――確実に。

狂犬記(桃の日記)

天文23年 師走上旬 12月5日 昼

今日は、はっきり分かった。

戦は“勇気”じゃない。

設計だ。

景虎姉上は、最初から3歩で前に出ていた。

怖いから3歩。

生きるための3歩。

そして、敵が下がった瞬間、5歩に変えた。

たった2歩。

でも、その2歩で、今川の心が折れた。

戦は、距離と時間。

速さじゃない。

乱れないこと。

信長兄上は、笑っていた。

胃が痛くない信長兄上は、ほんとうに厄介だ。

私は白衣を着て、前に出た。

医師だから。

殺し切るためじゃない。

捕まえて、終わらせるため。

狂犬は、今日、確かに噛み破った。

でも、まだ終わりじゃない。

――ゆるり、ゆるり。

次は、骨までいく。

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