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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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137話 猿渡川の戦い 信長強襲

西暦1554年12月5日(天文23年 師走上旬・だいたい)昼前

猿渡川の霜は、昼前になっても溶けきらない。

土は冷たく、息は白く、火縄の匂いだけが妙に生々しい。

太鼓。法螺。怒号。

戦場は音でできている――そう思うほど、今川の前進号令が空気を割っていた。

大原雪斎が、喉を裂く勢いで叫ぶ。

「前へ! 前へ! 前へだァ!!

包囲を絞れ! 止まるな! 踏み潰せ!!」

今川の軍勢は、押す。押す。押す。

だが、押しているのに、進んでいるのに――前へ出るほど“減っていく”。

中央では、景虎が三段早合前進射撃を淡々と続けていた。

白頭巾、藍色の特製南蛮鎧、青鹿毛の雪風。

軍神は涼しい顔で、撃って、進んで、撃って、進む。

その横で、元康が半泣きで叫ぶ。

「姉上! なんで戦いながら講義できるんじゃ!?」

景虎はさらり。

「戦は“手”でやる。勝ちは“頭”で取る。

頭が暇になるように、手を仕組みにしたのよ」

「今言う!? 今それ言う!?」

「今だから言うの。

元康、“怖い”は正常。正常な人は、命令が聞ける。命令が聞ける兵は、勝てる」

元康は歯を食いしばり、後ろを見る。

土嚢。土嚢。土嚢。

旗本先手役(戦闘工兵)が、野戦築城を“戦いの速度”で組み上げていく。

「……これが鍵って、こういうことか……!」

前線。

狂犬お市様は、凶悪なガントレットとド派手な鎧の上に、医師の白衣を羽織っていた。

白衣の白が、硝煙と霜の中で異様に映える。

“命を救う白”が、“命を奪う戦場”にいる矛盾が、兵の心を逆に熱くした。

お市様が、抜刀隊に声を落とす。

「景虎姉上の前進を妨げる者は――わらわが診る」

阿国が肩をすくめる。

「先生、診察いうても……今日、手術やろ?」

忍びの1人が即ツッコミ。

「手術じゃなくて斬撃です!」

阿国がにやり。

「ほな、斬撃手術や」

「言い方ぁ!」

お市様が笑って、白衣の袖を一度払った。

血を嫌う仕草ではない。迷いを払う仕草だ。

そして号令。

「――わらわに、ついてこい!

ゆるり、ゆるり。前進するぞ!」

“ゆるり”が、怖い。

狂犬の“ゆるり”は、確実に腹を噛み破る歩幅だ。

狂犬は粘る。前進する。粘る。前進する。

犬が獲物の腹に食いついて、離さない――そんな執念の前進。

右翼。

刈谷城外から飛び出した柴田権六勝家の1,000が、今川右翼へ突き刺さっていた。

権六無双が始まっている。たちが悪い。

しかも本人が、気持ち悪いほど楽しそうだ。

勝家が吠える。

「どけええええ! 推しが前におられるぞ!!

今日という今日を、礼儀で貫く!!」

部下が叫ぶ。

「礼儀の使い方が致命的に間違ってます!!」

勝家が即答。

「黙れ! 姫様の戦場に、遠慮があるかァ!!」

右翼の突撃が命だった。

雪斎はそれを分かっていたから、背筋に冷汗が流れる。

(……右翼が崩れる。

このまま中央も裂ける。

いや、裂けたら終わる……!)

雪斎は叫ぶ。

「右翼、持ち直せ! 関口、押し返せ!

――前進! 前進! 止まるなぁ!!」

叫べば叫ぶほど、声が焦りの形になる。

焦りは伝染する。

伝染した軍は“正しい後退”ができない。

雪斎の思考は止まらない。

(狂犬は……これだけなのか?

いや、違う。

“これだけ”でここまで来るはずがない。

何か隠している。何か、まだ――)

その瞬間だった。

伝令が、転げるように駆け込んできた。

足を引きずっている。

ふくらはぎが赤い。銃玉が貫いた跡だ。

それでも、伝令は倒れない。倒れたら言葉が消えるからだ。

「雪斎様ッ!!」

雪斎が振り向く。

「何だ!」

伝令は息を吐く。吐く息が白く割れる。

「左翼、遠方――織田の旗、無数!!

……無数にございます!!」

雪斎の顔から血の気が引いた。

“無数”という言葉は、兵法ではない。

だが戦場では、最も強い情報だ。

数は理屈を飛び越えて、心臓を掴む。

今川義元が、鞭を落とした。

落ちた鞭が、霜の土に鈍い音を立てる。

義元の口が開く。

「……信長、か」

雪斎は、天を仰いだ。

空は青い。青いのが腹立たしいほど、青い。

(やられた。

釣り野伏ではない。

“釣って、裂いて、噛み潰す”――狂犬の戦だ)

義元の肩が、ほんの少し震えた。

怒りか、恐れか、屈辱か――どれもだ。

雪斎が、声を絞り出す。

「義元様。撤退の準備を……」

義元は笑った。乾いた笑いだ。

「撤退、か。

三か国の太守が、撤退――」

雪斎は言葉を切った。

「生きて戻らねば、今川は終わります」

義元の瞳が、ようやく地に戻る。

「……撤退の道は?」

雪斎の答えは速かった。

「右翼を捨ててでも、本陣をまとめる。

朝比奈と関口に“時間を買わせる”。

そして――駿河へ帰るのではない。

いったん、兵を解いて立て直す」

義元が苦く笑う。

「兵を解けば、二度と集まらぬ兵も出るぞ」

雪斎は睨む。

「集まらぬ兵を、集めて戦に出すから負けます」

その言葉が、太守の胸に刺さった。

その頃、狂犬陣。

景虎は煙の向こうに見えた“無数の織田旗”を、雪風の上から一瞥しただけで、元康に言った。

「来たわね。信長」

元康が喉を鳴らす。

「……姉上、織田が来るの分かってたのか」

景虎は平然。

「分かってるから、ここで戦ってるのよ。

“時間”が勝ち。

狂犬は時間を作り、信長が刃を打ち込む。

――戦は、段取り」

元康は震える手で、兜の紐を握り直した。

「……段取りで、太守が泣くんかよ」

景虎が横目で見る。

「泣かせるのが段取り」

元康が即ツッコミ。

「姉上、さらっと怖いこと言うな!」

狂犬お市様は、白衣の襟を指で正し、前を見た。

敵が揺らいでいる。

軍が“負け方”を探し始めている匂いがする。

お市様は小さく呟く。

「よい。

恐れは薬。

恐れは、敵にも効く」

そして、白衣の上からガントレットを鳴らし、声を張った。

「――今川の腹は裂けた。

あとは、噛み千切るだけじゃ!」

兵が吠える。

火縄が唸る。

雪斎の焦りが、さらに戦場へ滲む。

この瞬間、今川は理解した。

狂犬は、ただ強いのではない。

“勝ち方”そのものを発明している、と。

狂犬記(巻末日記)

天文23年 師走上旬(12月5日・昼前)

雪斎が前進を叫び続けた。

叫ぶほど、焦りが形になる。

焦りは敵にも味方にも伝染する。

伝染した軍は、正しい退き方を失う。

景虎姉上は、元康に講義しながら撃つ。

軍神は戦場を学校にする。

元康は真面目だ。聞く。覚える。耐える。

耐える者は、いつか国を背負う。

右翼で権六が暴れた。

推し活という名の狂気は、時に最強の武器になる。

敵が「嫌だ」と思った瞬間、隊列は崩れる。

そして――左翼遠方に織田の旗が無数。

義元が鞭を落とした音が、なぜかよく聞こえた。

太守の心が落ちた音だったのかもしれぬ。

戦は、力ではなく段取り。

段取りは、心を折るために組む。

心が折れた軍は、どれほど数があろうと“ただの群れ”になる。

狂犬記・桃

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