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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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135話 刈谷城外 猿渡川の戦

西暦1554年12月5日(天文23年 師走上旬・だいたい)

冬の朝は、息が痛い。

霜を踏む音が、鎧の擦れる音が、遠くの太鼓の音が――全部、硬い。

三河・刈谷城外。猿渡川。

川を背にしたら退路が消える。

退路が消えたら、人は震える。

震えたら、隊列が崩れる。

それが常識だ。

だが、狂犬お市様は――常識を喰う側だった。

今川義元は15,000。

兵糧が尽きる前に刈谷を落とし、緒川を落とし、兵糧を吸い上げるしかない。

逃げ道がないのは今川も同じだ。引き返せば10日。兵糧も10日。

詰みかけの大名は、勝負に出るしかない。

「包め。踏み潰せ。終わらせる」

義元が軍を展開させる。

目の前に――狂犬の陣。

猿渡川を背に、せいぜい1,000ほど。

数だけ見れば、踏み潰して終わりのはず。

義元は太鼓を鳴らさせ、包囲を命じた。

「鶴翼陣! 左翼・関口5,000! 右翼・朝比奈5,000! 本陣5,000!」

太鼓が腹に響く。

土が震える。

15,000が羽を広げ、千を抱き潰す形――美しい“勝ちの陣”。

そのはずだった。

大原雪斎が、敵陣の旗を見て眉を動かす。

狂犬旗。葵の旗。――ここまでは分かる。

だが、もう1本。

白地に、毘。

「……なぜ、毘がある」

雪斎の背筋が冷えた。

この戦場に、越後の軍神の旗があるということは――軍神がいるということだ。

気づいた瞬間には遅い。

狂犬お市様が、前へ出た。

凶悪なガントレット。

ド派手で骨太な鎧。

その上から、医師の白衣を羽織っている。

――狂犬の鎧の上に、白衣。

戦場でそれは、あまりに異様で、あまりに正しい。

「……診察の時間や」

お市様は笑った。

笑いが冷たい。けれど、目は熱い。

「患者は15,000。症状は“腹が空いて焦ってる”。

 処方は簡単。――槍で静かにしてもらう」

前列が動く。

狂犬方・陣形

最前列:狂犬お市様 200(忍び6人+阿国含む)

中央:長尾景虎 300(火縄銃 三段・三列・横陣)

左翼:藤吉郎 200(槍隊)

右翼:利家 200(槍隊)

後備遊撃:慶次 200(槍弓騎兵/景虎の真後ろ)

景虎のさらに後ろ:松平元康・酒井忠次+旗本先手役 200(戦闘工兵)

前列の端で、阿国が口を尖らせた。

「うわぁ……お客さん、ほんま多いなぁ。今日、千客万来どころちゃうやん」

忍びが即座に突っ込む。

「阿国さん、ここ戦場!」

「知ってる。だから芸で勝つんや」

「勝ち方が違う!」

お市様が白衣の裾を軽くつまみ、前列に言う。

「阿国、踊るなら……血の上はやめとき。滑る」

「お市様、そこ気にする!?」

「医者や。滑って転んで骨折とか、いちばん腹立つ」

前列の空気が、軽い。

軽いのに、刃が立っている。

これが狂犬の怖さだ――兵が笑って、殺しに行く。

中央。

景虎姉上は白頭巾で頭を包み、藍色の特製南蛮鎧――お市様が作った鎧を纏う。

異国の仕立てで動きやすく、それでいて胸と腹が硬い。

そして何より――“指揮官が死ににくい”。

愛馬は三泊流星・青鹿毛の雪風。

冬の戦場に、青鹿毛の艶が凍るように映える。

景虎は、まるで講義でもするように淡々と元康へ話しかけた。

戦場で、授業を始める軍神。

「元康。あの鶴翼陣――きれいね。だから割れる」

元康の喉が鳴る。

「……割れる?」

景虎は雪風の首を軽く撫でながら、敵陣を指した。

「包囲は“外へ広がる”ほど、中心が薄くなる。

 中心が薄くなるほど、指揮が届かなくなる。

 指揮が届かないところに“火”を置けば、羽は燃える」

元康は戦慄しながらも、聞き逃さない。

この人は、戦を“絵”として見ている。

景虎はさらに言う。

「それに――敵は空腹。

 空腹の軍は、早い。早い軍は、雑になる。

 雑な軍は、土嚢に負ける」

「土嚢に……?」

「うん。あなたの200が、今日の勝ちの柱」

元康の心臓が跳ねた。

初陣が大戦。しかも“勝ちの柱”。

胃が痛いどころではない。

その横で忠次が低く言う。

「殿。聞いた通り動けばよい。

 考えるのは勝ってからにございます」

元康は、震える手を握りしめた。

「……分かった。やる」

景虎は頷く。

その目は氷。声は静か。

「うん。怖くていい。

 怖い人間ほど、手が速い」

決戦は、今川の弓合わせから始まった。

矢が、空を埋める。

15,000の圧が、まず矢になって飛んでくる。

雪斎が叫ぶ。

「弓を止めるな! 削れ! あれは1,000だ!」

義元が怒鳴る。

「包め! 踏め! 終わらせろ!」

矢雨。

その瞬間――元康が吠えた。

「旗本先手役! 土嚢! 一気にいくぞ!」

無数の土嚢は“積むため”ではない。

“置いてあるものを、その場で壁に変える”ためにある。

2人1組。

土嚢を前へ押し、並べ、蹴り固め、次を重ねる。

狭間を作る。

盾を差す。

天井板を渡す。

矢を殺す。

三河武士の誰かが、ついに叫んだ。

「……意味、あったな!」

別の者が怒鳴り返す。

「黙って積め! 口より手ぇ動かせ!」

「動かしてるわ!」

罵声と笑いが飛ぶ。

だが作業は速い。

恐怖が手を動かす。

手が壁を作る。

壁が命を残す。

矢が刺さる。

土嚢に。

人に刺さらない。

雪斎の顔が、初めて歪む。

「……野戦築城……!」

景虎が元康に、さらりと言った。

「ほら。あなたの200が、矢を食べてる」

元康の背中に汗が流れた。

だが――不思議と目は澄んでいた。

(俺は……やれている)

そして、壁が出来た瞬間。

景虎の指が上がる。

火縄が赤く灯る。

銃口が揃う。

景虎が元康へ、授業の続きみたいに言った。

「次は“撃ち続ける”よ。

 撃つのは簡単。撃ち続けるのは――準備の勝ち」

お市様が前列を見たまま、白衣の袖を直す。

「弓は土嚢が食べる。

 ほな――うちらは、心臓を取りに行こか」

阿国がにやりと笑った。

「開幕やね」

忍びが即座に突っ込む。

「開戦です!」

阿国は肩をすくめる。

「どっちも血が出るやろ」

「出し方が違う!」

景虎が、氷の声を落とした。

「――撃て」

煙が上がる。

火蓋は、もう切られていた。

狂犬記(巻末日記)

天文23年 師走上旬(12月5日)

猿渡川の霜は、白くて硬い。

踏むと、音が割れる。

割れるのは霜だけでいい。人の心は割れてはならぬ。

義元は15,000。

わらわは1,000ほど。

数は不利。けれど、腹は今川が不利。

腹が減ると、判断は荒くなる。

荒い判断は、土嚢に負ける。

今日のわらわは、鎧の上に白衣を着た。

医者だからだ。

戦は“命を取る”仕事である前に、“命を残す”仕事でもある。

残した命で、村を耕させる。

残した命で、子を育てさせる。

それが勝ちの中身。

姉上は白頭巾に藍の南蛮鎧。雪風。

戦場で講義をしていた。

元康は震えていたが、耳はよく働く。

怖い人間は、手が速い。

旗本先手役200――あれは今日の柱。

矢を土嚢が食べた。

人が残った。

残った人が火縄を撃てる。

雪斎が毘の旗を見て、目を曇らせた。

気づいたのだろう。

“包囲した方が負ける形”に誘われていると。

だが遅い。

戦は、始まってから気づいた者が負ける。

今夜、髪に火縄の煙が残る。

それでも眠れる。

眠れるうちに、勝ちを積む。

狂犬記・桃

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