134話 武田の流儀
西暦1554年12月2日(天文23年 霜月下旬・だいたい)
吉田城下を出た武田信虎は、道を曲がらなかった。
真っ直ぐ――刈谷のさらに後ろ、緒川へ。
「……戦の前とは思えん町よの」
ぽつりと漏れた声は、冬の風にさらわれた。
緒川城下は、戦の匂いよりも、湯気と醤油と甘い香りが勝っていた。
道には荷車が行き交い、港へ向かう人足の掛け声が腹に響く。
店先には行列、行列、また行列。
そして――
「いらっしゃいませぇ! 狂犬堂でござるぅ!
本日は“蒸し羊羹”が初日! 初日だけ、切れ端増量ぉ!」
「おい増量って言うな! 端っこサービスって言え! 夢があるだろ夢が!」
「夢より糖分だよ糖分! 旦那、これ食べたら三段撃ちも三倍速いって!」
「嘘を言うな! 早合は口で装填するんじゃない!」
店員と客が、互いに突っ込み合いながら笑っている。
城下の空気に、妙な明るさがある。
信虎は、その光景を見て、無意識に喉を鳴らした。
「……戦は腹で始まる、か」
兵法の言葉が、皮肉なくらい当たっている。
ここでは“腹”が、すでに満たされていた。
信虎の左右には、小さな影が二つ。
息子・虎春十二歳。娘・小虎十一歳。
そして一歩遅れて、優しい目をした女――小春。信虎の身の回りを支える人だ。
虎春は鼻を利かせた犬みたいに、露店の匂いに敏感だった。
「父上! 団子がある! 狂犬印!」
「……武田の誇りはどうした」
「誇りは腹の上に乗せるものではないのです!」
小虎が即座に突っ込む。
「誇りは心! 腹は羊羹!」
「おとら、それはそれで何か違うぞ」
信虎は苦笑した。
子らは子らで、きちんと“武田の流儀”を継いでいる。
つまり――好きなものは好き、と言い切る頑固さだ。
「父上、今日は何の研修で?」
小虎が聞いた。
信虎は歩みを止め、緒川の港を指さした。
「あれを見るのじゃ」
緒川の港は、拡張されていた。
かつての小さな船着き場ではない。杭が打たれ、桟橋が延び、荷揚げの動線が分けられている。
早船が入る。
小舟だけでなく、少し腹のある船も寄せられる。
港の端には木札が並び、荷の種類ごとに置き場が決まっている。
「米、塩、干し魚、鉄、木材……薬種まであるの」
小春が、驚いたように呟いた。
信虎は言った。
「兵站じゃ。戦より先に、勝っておるのは港よ」
兵法家として、見れば分かる。
戦の準備とは、槍を研ぐことではない。
“途切れない”道をつくることだ。
「吉田も岡崎も、今川が詰んだ理由が見える」
信虎の声が低くなる。
「兵を動かすのに必要なのは、徴発ではない。
徴発は“恨み”を積む。恨みは、逃げ道を探す。逃げ道があれば、人は消える」
虎春が真面目な顔で頷いた。
「だから今川の城下は、静かだったのですね」
「そうじゃ。静かすぎる城下は、終わりの合図じゃ」
小虎が港の人足を見つめる。
荷を運ぶ腕が、早い。迷いがない。
誰かに脅されている動きではない。
「……でも、なんで皆こんなに働くの?」
信虎は、そこが肝だと思っていた。
「銭が回るからじゃ」
言い切ると、腹の底が少し冷えた。
兵法を越えた“仕組み”がここにある。
城が強いのではない。
仕組みが、人を強くしている。
狂犬印団子屋の前で、虎春が立ち止まった。
「父上、蒸し羊羹!」
「……食うなとは言わん。だが、研修だ。観察しろ」
「観察しながら食べます!」
「それはただの食いしん坊だ」
小虎が即座に刺す。
「兄上は武田流“食べて覚える”の達人だから」
「それ褒めてないよな?」
店の女将が、手際よく包みを渡してきた。
「はいよ、蒸し羊羹。
切れ端――じゃなくて、端正な一切れ、おまけね」
「端正って言うな! 切れ端でいい! 切れ端は正義!」
虎春が胸を張る。
小虎は呆れ顔で、しかし口元だけは笑っている。
信虎は羊羹を一口。
――甘い。だが甘いだけではない。
どこか塩気があり、後味が軽い。
「……うまい」
思わず漏れる。
小春が、ほっとしたように笑う。
その笑みに、信虎の胸はちくりと痛んだ。
(小春を、楽にさせてやりたいが……)
数ヶ月前。
木下藤吉郎という男が駿河へ来て、破格の話を持ってきた。
兵学を教えるだけでよい。
一万貫。
狂犬の家臣になれ、と。
断った。
――武田じゃし。
それだけで済ませたはずが、今、港を見ていると心が揺れる。
武田の誇り。武田の名。
だが子らが育つのは駿河で、甲斐ではない。
それでも、武田流兵術は継がねばならぬ。
「父上」
小虎が言った。
「武田流の“相伝”って、槍の振り方だけじゃないよね」
信虎は、娘の目を見た。
その眼は鋭く、どこか晴信に似ている。
――似てほしくないのに、血は嘘をつかぬ。
「そうじゃ。武田流の相伝とは、“勝ち方”ではない。
“負けぬ作り方”じゃ」
虎春が羊羹をもぐもぐしながら言う。
「狂犬は、負けぬ国を作ってる?」
「そう見える」
信虎は、遠くを見た。
「しかも、戦で作っておらん。
港で、道で、銭で、腹で作っておる」
そこへ、港の方から甲冑姿が二人、軽く手を挙げて通り過ぎた。
同心――鳴海から来た者だろう。
揉め事を抑える気配が、町の背骨になっている。
「……緒川は、戦場の後ろなのに、後ろが一番強い」
信虎は、腹の中で舌打ちした。
(狂犬の兵法――恐ろしい)
その時、虎春が店の張り紙を読んで笑った。
「父上! これ見て!」
そこには大きく書かれていた。
『蒸し羊羹:兵糧にもなる(気がする)』
「気がするって何だ!」
小虎が突っ込む。
店員が胸を張った。
「気合が入るので、気がします!」
「気合で兵糧を名乗るな!」
信虎は、その騒ぎを聞いて――
なぜか胸の奥が、少しだけ軽くなった。
戦の前なのに、笑いがある。
笑いがあるから、腹が回る。
腹が回るから、兵が立つ。
狂犬の国は、そういう順番なのだ。
「……武田流の研修、今日は合格じゃ」
信虎が言うと、虎春が目を輝かせた。
「えっ、じゃあもう一個食べていい!?」
「それは別試験じゃ」
小虎が即座に斬る。
「兄上、落第」
「なんでだよ!」
小春がくすくす笑い、信虎は空を見た。
冬の空は薄い。
だが、戦の雲は濃い。
(この国は、勝つ)
そう直感してしまった自分が、少し悔しかった。
――武田じゃし。
狂犬記
天文23年 霜月下旬(二日)
緒川にて。
戦の前だというのに、町が笑っている。
笑いながら働き、働きながら食い、食いながら学んでいる。
港は拡張され、道は整えられ、荷は分類され、同心が背骨になっていた。
兵は槍で立つのではない。
腹で立つ。道で立つ。銭で立つ。
狂犬の国は、戦をする前に勝っている。
虎春が蒸し羊羹を「兵糧」と呼んだ。
小虎がそれを斬った。
小春が笑った。
――その光景が、なぜか胸に残る。
わしは武田流兵術の継承者。
次の時代へ繋ぐだけ。
それだけのはずが、港を見て、心が揺れた。
藤吉郎の一万貫が、頭の片隅で鳴っている。
小春を楽にさせてやりたい。
子らを太らせてやりたい。
だが――武田じゃし。
ただ、今日学んだ。
誇りとは、腹を空かせることではない。
腹を満たして、次を考える力だ。
狂犬記・




