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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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133話 霜月、岡崎という名の座敷牢

西暦1554年12月1日(天文23年 霜月上旬)

岡崎の空は、冬を連れてきていた。

吐く息は白く、城下を渡る風は、肌ではなく骨に染みる。

その岡崎へ――

今川義元、九千の軍勢が入場した。

太鼓は鳴り、旗は翻る。

槍列は揃い、甲冑は陽を弾く。

三河・遠江・駿河を支配する太守としての威容は、確かにそこにあった。

だが。

義元が城下を見渡した瞬間、その胸に、言いようのない違和感が広がった。

「……静か、だな」

誰に向けたともなく、義元は呟いた。

人はいる。

城下に家はあり、道も整い、寺の鐘も鳴る。

だが――城下町にあるべき“熱”がない。

露店の呼び声がない。

年貢の嘆きも、徴発への怒号もない。

あるのは、整いすぎた日常だった。

一方、別動の朝比奈軍・関口軍は、蒲郡・幸田・西尾と各地を巡っていた。

「徴発だ! 兵糧を出せ!」

命令は出す。

だが、返ってくるのは、奇妙な沈黙だった。

農民は逃げない。

鍬を置きもせず、畑に立ったまま頭を下げる。

「……もう、出せませぬ」

それ以上でも、それ以下でもない。

倉を開けさせても、空に近い。

問い詰めても、反抗はない。

ただ、差し出す物が存在しない。

寺に入れば僧はいる。

だが、そこに手をかければ、次に起きるのは一揆では済まぬ。

本願寺の名が、重く空気を支配していた。

結果、朝比奈も関口も――

兵糧を得られぬまま、ただ歩き、食い、減っていく軍となった。

岡崎城。

評定の間にて、大原雪斎は城代と向き合っていた。

城代は、深く疲れた目をしていた。

「……狂犬と、松平元康の調略でございます」

雪斎は、静かに促す。

「続けよ」

「三河の農民は、収穫した作物をすでに売っております。

 売り先は、狂犬堂。現金払い。値は一定」

「年貢は?」

「取りません」

雪斎の眉が、わずかに動いた。

「正確には、知田は水田一割、畑は無税。

 その水田一割も、災害時の備蓄と、狂犬堂の商品原料です」

「……税ではない、と」

「はい。

 狂犬堂で働けば給金が出ます。

 銭で回り、米は商品です。

 民にとっては、税ではありません」

言葉が、刃のように刺さる。

「今川が年貢を求めれば、どうなる?」

「……村ごと鳴海へ移ります」

城代は、淡々と続けた。

「岡崎城下町にも、狂犬堂が商いを始めました。

 人気は……ありすぎるほどです」

「寺小屋は?」

「無料です。

 治安は、鳴海から来た同心が裁きます」

雪斎は、目を閉じた。

これは、調略ではない。

制度の移植だ。

「……私は」

城代は、声を落とした。

「民衆から、完全に孤立しております。

 岡崎城は……座敷牢でございます」

報告を受けた義元は、しばらく黙っていた。

やがて――

声を上げて笑い出した。

「はは……ははははは……!」

家臣たちは、言葉を失う。

「わしは、何をしに来たのじゃ?」

義元は、自嘲するように言った。

「戦でもなく、支配でもなく……

 遊ばれておるではないか」

狂犬。

その名を、初めて“恐怖”として理解した瞬間だった。

「滑稽よ……

 三国の太守が、腹を空かせて立ち往生とはな」

笑いは、やがて消えた。

雪斎は、何もない空間を睨んでいた。

(――兵法が、ここまで来たか)

兵を斬らず、城を落とさず、民を動かす。

太守の権威を、空にする兵法。

「……決戦しか、あるまいな」

雪斎の声は、低く、重かった。

霜月。

静かに、だが確実に――

逃げ場のない戦が、始まっていた。

狂犬記(巻末日記)

天文23年 霜月一日

岡崎は、もう今川の城ではない。

あるのは、今川が“居る”だけの城。

兵は多い。

旗も多い。

だが、腹が減る。

刀を抜く前に、国を抜いた。

奪わず、選ばせただけ。

無税は、優しさではない。

逃げ道を一本にしただけだ。

雪斎は、気づいた。

義元は、気づくのが遅かった。

太守とは、民の上に立つ者ではない。

民の流れの上に立つ者だ。

流れを変えれば、太守は溺れる。

わらわは、刃を振っていない。

畑と道と銭を動かしただけ。

狂犬記・桃

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