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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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132話 霜月の空城、雪斎の焦り

西暦1554年11月27日(天文23年 霜月下旬)

三河の空は、乾いていた。

霜が降りるほど冷える夜と、妙に青い昼。冬の入口の空気は、戦の匂いを研ぎ澄ます。

今川本隊は、吉田城に入った。

城門が開き、軍勢が流れ込む。旗は林のように揺れ、槍先は霜光を拾う。

だが、その光景のわりに――城下が、妙に静かだった。

吉田城で、軍は三つに割られた。

第一軍(本隊):今川義元 九千

第二軍:朝比奈軍 三千

第三軍:関口軍 三千

本隊は岡崎を経由し、兵と兵糧を徴発しながら刈谷へ向かう。

第二軍は、蒲郡から幸田を抜け刈谷へ。

第三軍は、蒲郡から西尾を抜け刈谷へ。

筋は通っている。海道の軍として、普通の割り方だ。

兵站も徴発も、いつもの今川。

――本来なら。

大原雪斎が吉田へ入ったのは、昼前だった。

雪斎は僧の衣のまま、城下へ視線を走らせた。

いない。

いるべきものが、いない。

家の戸は閉じ、井戸端に女の影もない。

子どもの声がしない。

畑に人影がない。

鍋の匂いも、薪の煙も、ない。

戦のとき、民が隠れることはある。

だが、ここまで“気配そのもの”が消えるのは異様だった。

隠れたというより――引いた。まるごと。

雪斎は、城代を呼びつけた。

吉田城代は、顔色の悪いまま、平伏して答えた。

「……昨晩までに、消え申した。

 城下だけではございませぬ。近隣の村も……」

「消えた、とは何だ。誰が消した」

「……分かりませぬ。

 夜のうちに、荷をまとめたようで。

 米も鍋も、家財も……持てるだけ持って……」

雪斎の喉が鳴った。

徴発ができない。

兵糧が取れない。

兵が集まらない。

今川の強さは、三国の支配力――つまり、徴発の“慣れ”にある。

慣れた仕組みが、動かなければ、軍勢はただの重い塊になる。

雪斎は、城下の通りを歩いた。

足音がやけに響いた。

この響きが、いちばん不味い。

「……狂犬か」

噂は、何度も耳に入っていた。

無税。狂犬堂の買い取り。治水と治山の共同。

松平元康が三河を回っているという話。

「畑も田も取られぬ」と言って、民の腹を据えたという話。

雪斎は、内心で舌を噛んだ。

ここまで徹底されると、ただの流言ではない。

制度だ。運用だ。覚悟だ。

「……誘い込まれておる」

雪斎の背筋に、冷えが走った。

戦の形が変わっている。

敵の城を落とす前に、敵の腹を落とす。

民を削って軍を削る。

今川が得意とした“圧力”が、逆に刃になって返ってくる。

雪斎は、義元のいる本隊へ急ぎの使者を走らせた。

しかし使者の背を見送った瞬間、もう一段深い不安が胸を叩いた。

義元は――理解するだろうか。

この“空”の恐ろしさを。

城の上から見える三河の野は、霜で白い。

白いのに、どこか温い。

そこに人がいないからだ。温さだけが残っている。

雪斎は、拳を握った。

「これは……“刈谷”へ向かう道ではない。

 “罠”へ向かう道だ」

戦は、もう始まっていた。

ただし、まだ誰も矢を放っていないだけで。

狂犬記(作者・桃)

天文23年 霜月二十七日

雪斎が、ようやく“空”を見た。

今川が強いのは、槍が強いからではない。

民から奪えるからだ。奪えると思っているからだ。

奪えぬ戦は、今川にとって未知。

未知は、軍師を焦らせる。焦りは、判断を鈍らせる。

鈍りは、軍を重くする。

私は、吉田の城下の“無人”を聞いて、少し笑った。

民は逃げたのではない。

選んだのだ。

取られるくらいなら、消える。

消えて、刈谷の東へ寄る。

寄って、土を積む。水を引く。道を押さえる。

武は、刃ではない。

腹と土と道に宿る。

雪斎は賢い。

だが賢い者ほど、悔しさで目が曇ることがある。

義元は、もう走り出した。

止まれぬ。止まれば、三国の威が落ちる。

走れば、罠へ入る。

――だから、走らせる。

それが、狂犬式。

明日の霜は、もっと白いだろう。

白いほど、血は目立つ。

――桃

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