131話 狂犬式、見抜く老人
西暦1554年11月24日(天文23年 霜月下旬)
三河は、冬の入口に立っていた。
朝の空気は冷たく、息が白い。稲穂の匂いが消え、代わりに土と落ち葉の匂いが濃くなる。農閑期――つまり、戦の季節である。
今川本隊は、野田城を経由して進軍中。
遠江から三河へ、海道をなぞるように“太守の軍”が滑り込んでくる。
その情報を聞いた武田信虎は、先に三河へ入っていた。
狙いは単純で、そして古典的だ。
「まず“民”を見る。次に“道”を見る。最後に“兵”を見る。
戦は城で始まるのではない。腹で始まる」
信虎は吉田城下にいた。
ここは松平元康が、地道に地道に、国中を回って「無税」を説いて回った最前線。
城下の空気が、すでに今川のそれとは違う。威圧ではなく、妙な軽さがある。
「……なるほどな」
信虎は歩きながら、道端の様子を見た。
荷車がすれ違える道幅。堀の掃除。井戸の整備。寺子屋の札。
そして、城下の米屋の看板に、見慣れぬ印。
――狂犬。
「兵術だな。これは兵術だ」
戦場の兵術ではない。
国を戦場にしない兵術だ。
信虎は、無意識に笑ってしまった。
「義元……詰んでおるぞ」
後ろで、子どもの声が跳ねた。
「父上! ここ、煎餅が違う! 厚みが違う!」
「兄上、それは違う。焼き目じゃ。焼き目の“虎”が美しいのじゃ」
武田虎春と武田小虎。
団子屋の時と同じ調子で、今度は煎餅を前に戦っている。
(平和だ。平和すぎる。)
そして二人の前に、湯気を立てる丼が並んだ。
「ほれ、黙って食え。温かいうちに」
吉田城下の飯屋――“まつや”。
看板には、控えめに小さく「狂犬印」とある。
噂には聞いていたが、まさか三河の最前線にまで店があるとは。
「……おい、これは……」
信虎は箸を入れた。
卵が、柔らかい。
鶏は臭みがない。
米が立っているのに、硬くない。
つゆの香りが、妙に上品だ。
「うっ……うまいぞ、親子丼……!」
思わず声が漏れた。
虎春が笑う。
「父上、さっきから“武田じゃし”しか言わないくせに、
こういう時だけ正直ですね」
「黙れ。甘味は正義、親子丼も正義じゃ」
小虎は煎餅を振り回しながら言った。
「でも父上、兵術って言うなら、これも兵術?」
「……そうだ」
信虎は丼を置き、指で空中に線を引く。
「兵は飯を食う。飯は畑から出る。畑は水で決まる。
水は道で運ぶ。道は人が守る。
人が守るには“希望”が要る」
虎春が首を傾げる。
「希望?」
「無税だ」
信虎は、吐き捨てるように言った。
「今川は徴発する。兵糧も兵も、上から奪って集める。
だが三河は今――無税だ。
奪われぬと知った民は、腹が据わる。逃げぬ。隠れぬ。
そして、“手が空く”。治水も道普請も、共同でやる」
小虎が目を丸くする。
「無税って、ただ優しいだけじゃないんだ?」
「優しい? 違う」
信虎は笑った。冷たい笑いだ。
「これは焦土作戦の逆だ。
敵の国を焼くのではない。
自分の国を豊かにして、敵の徴発を“空振り”させる」
虎春がハッとした。
「今川は、遠江で兵糧を集めながら来る……でも遠江も噂を聞けば――」
「そう。
“三河は無税で良い、松平元康が説いて回っている”
この噂が広がれば、遠江の農民は嫌々になる。
徴発は鈍る。兵の集まりも鈍る。
義元の軍は、重くなる」
信虎は箸を置き、静かに言った。
「寄せが効きすぎておる」
「寄せ?」
「詰将棋の“寄せ”だ。
盤面を締め上げれば、相手は苦しくなる。
だが締め上げすぎると――逃げ道が“狂犬”にしかなくなる」
虎春が唾を飲んだ。
「……じゃあ義元は、狂犬の首を取るしかない?」
「取らねば終わらぬ。
取っても終わらぬかもしれぬ」
小虎が小声で言った。
「……民衆の恨みが、今川に向くから?」
信虎は小虎を見た。
少し驚いたような顔をして、次に嬉しそうに頷く。
「その通りじゃ。
徴発の恨みは、征服者に向く。
“無税”の甘さを知った民は、もう元には戻れぬ」
虎春が遠慮がちに聞いた。
「父上……雪斎は? 今川の軍師は、気づかないんですか?」
信虎は、親子丼の湯気の向こうを見た。
「……気づいておるはずだ。
だが、遅い。
そして――寺院じゃ」
「寺院?」
「本願寺など、寺の指示が要る。
だが“無税の国”に、寺の号令は通りにくい。
民が寺に頼らずとも生きられるからだ」
信虎は、ここで小さく息を吐いた。
「狂犬は、戦場の兵術ではなく、
“国”そのものを兵器にした」
虎春は箸を持ったまま固まった。
小虎も煎餅を忘れている。
「父上……」
「まだ言うな」
信虎は、城下の往来に視線を滑らせた。
行商人、旅の僧、荷を担ぐ若者。
その中に、視線が妙に鋭い男が一人いる。
信虎は何も言わず、丼を食べ切った。
「……よし。腹は満ちた」
虎春が慌てる。
「父上、どこへ?」
「状況を掴む。
“狂犬式”の骨格が見えた。
次は、誰が骨を動かしておるか、だ」
小虎が煎餅を掲げて言う。
「父上、これ持ってって! 兵術の煎餅!」
「いらぬ。……いや、一本だけだ」
「父上、結局甘味に弱い!」
「甘味は正義じゃ!」
店の女将が笑いながら、包みを渡した。
「武田さま、道中お気をつけて。
最近、今川の役人が、城下の空気を嗅ぎに来てますからねぇ」
信虎は、包みを受け取って頷いた。
「……嗅げばよい。
嗅いでも、もう遅い」
吉田城下の空は、冷たく澄んでいた。
戦の匂いは濃い。
だが、その匂いの下に、確かに――生きる匂いがあった。
狂犬記(作者・桃)
天文23年 霜月二十四日
吉田の城下は、静かである。
戦の前の静けさ、というより、腹が満ちた村の落ち着き。
無税とは、ただの慈悲ではない。
民の心を“戦場から降ろす”術である。
奪われぬと知った民は、畑を守り、道を守り、子を笑わせる。
これほど強い守りはない。
武田信虎殿が、ようやく気づき始めた。
狂犬式の兵術は、槍や弓の先にあるのではなく、
米の先にある。
親子丼を食べて「うまい」と言った顔が、少し可笑しかった。
あの老人は、意地も誇りもまだ立っている。
だが――誇りの形が、少しだけ変わる日が近い。
冬の空気は、澄む。
澄むほどに、戦の輪郭が浮かぶ。
私は、笑ってしまう。
義元は、もう走り出した。
狂犬は、歩いている。
歩いている者の方が、息が長い。
――桃




