128話 土嚢は「積まない」
西暦1554年11月16日(和暦:天文二十三年 十月下旬ごろ)
三河・刈谷城外 猿渡川東の野原
冬の匂いがする朝だった。
猿渡川の湿った風が、野原の草を寝かせ、土を冷やす。空は薄曇りで、遠くの刈谷城の櫓がぼやけて見えた。
そこに――異様な光景が広がっていた。
土嚢。
土嚢。
土嚢。
だが、積んでいない。
塁にもならない。
壁にもならない。
ただ、置いてある。
松平元康は、旗本先手役二百を率い、お市様が指定した地点に、無数の土嚢を「置かせて」いた。
指揮の声を飛ばす元康の背後には、石川数正、本多重次、高力清長、そして副将の酒井忠次。
三河武士は真面目だ。
そして頑固だ。
黙々と働いていた兵の一人が、ついに口を滑らせる。
「……殿。これ、意味ありますかね」
「積み上げもしねぇ土嚢なんて、猫の寝床にもならんで」
その一言が火種になった。
「おい、言い方があるだろう」
「いや、でもよ……土嚢ってのは積んで土手にして、狭間作って、ってもんだ」
「ただ置くだけ? 誰が守れるんだよ」
「今川が見たら笑うぞ」
議論が、むくむくと育ち始める。
三河の武士は、理屈が通らないと動かない。動かないくせに、動き出すと止まらない。
元康は、心の奥が胃袋と一緒に絞られる感覚を覚えた。
(初陣が……大戦、か)
怖い。正直、怖い。
だが、怖いからこそ――言葉を選び、腹を括る。
元康は土嚢の一つを拾い上げるように叩き、皆の視線を集めた。
「意味はある」
きっぱり言った。
場が静まる。
「これは『城』ではない。今はな」
「だが――戦が始まった瞬間、これは『城になる』」
数正が眉を上げる。
「殿、積まねば城になりませぬ」
「積む。だが、今は積まぬ」
本多重次が、いかにも三河らしい言い方で刺す。
「殿、それを“屁理屈”と言います」
酒井忠次が咳払いで笑いを殺した。
「重次、言い方を選べ」
元康は、苦く笑った。
笑う余裕があるのが、自分でも意外だった。
「景虎殿に教わった」
その名が出た途端、空気が変わる。
越後の武神。
歴史上でも異様としか言えぬ軍事の天才。――諸葛亮も赤子扱い。
鳴海に来て以来、元康は何度もその「視点の違い」に震えてきた。
「景虎殿は言った。
『今川の陣前で、旗本先手役が素早く野戦築城できることが、この大戦の鍵だ』と」
高力清長が低く唸る。
「……陣前で、築城」
「正面から土木をやるつもりか。正気か」
元康は頷いた。
「正気だ。だから、今やっている」
元康は野原を指差した。土嚢が一定の間隔で点々と置かれている。
「積み上げるのは――戦が始まってからだ」
「今は、配置を刻む。足に覚えさせる。目に覚えさせる」
兵がざわめく。
「戦が始まったら、矢が飛ぶ。鉄砲が鳴る。槍が来る」
「その瞬間、人は“正しい場所”に立てない。
怖いからだ。煙があるからだ。叫び声があるからだ」
元康は一歩踏み出し、土嚢の前に膝をついた。
「だが、土嚢がここにあるだけで、兵は“ここに膝をつけ”と身体が覚える」
「次に、ここに土嚢を積む。狭間を作る」
「その後ろに火縄銃を置く。早合で三段――前進射撃をやる」
誰かが言った。
「火縄銃を守るための土嚢……」
「そうだ」
元康は頷く。
「今川は数が多い。正面から来る。
ならば、こちらの火縄銃が生きる形を“先に地面へ仕込む”」
三河武士の頑固さは、納得に弱い。
理屈が通った瞬間、逆に凄まじく従う。
本多重次が、鼻を鳴らした。
「……つまり、土嚢は“積むもの”ではなく、“動くための合図”だと」
「合図、ですか」
「面倒くせぇ合図だな」
「でも、嫌いじゃねぇ」
小さな笑いが起きた。
酒井忠次が、元康の横で小声を落とす。
「殿、よろしい。
兵は『意味がある』と分かれば、三河は折れませぬ」
元康は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
怖さが消えたわけではない。
だが、怖さを“手順”に変えられた。
その頃――今川は動いていた。
今川義元は、駿河を九千で出発。
遠江で兵と兵糧を集めながら前進中。
だが、遠江の兵の集まりは鈍い。
理由は、もう噂になっている。
「三河は、無税でよい」
「水田無税、畑無税」
「ただし、元康の指導に従え」
「従えば狂犬堂が買い取る」
尾張の熱田から流れた噂が、遠江の田畑を揺らしていた。
戦の勝ち負けは、槍の長さだけでは決まらない。
腹の具合、家族の暮らし、税の重さ――それが兵の足を止める。
元康は土嚢を見下ろし、静かに息を吐く。
「続ける」
「積むな。置け」
「そして、走れ。積め。撃て。前へ出ろ」
先手役二百が声を揃える。
「おう!」
土嚢が、野原に増えていく。
それは城壁ではない。
だが、城壁になる“約束”だ。
遠くで川が鳴った。
その音が、まるで大戦の鼓動のように聞こえた。
狂犬記(作者・桃)
天文二十三年 十月下旬/夜 鳴海
元康が、刈谷の野原で土嚢を「積まずに置いている」と聞いた。
よい。非常によい。
積んだ土嚢は、敵にも「完成形」が見える。
完成形は、壊し方も見える。
だが、置いただけの土嚢は、敵には意味が分からぬ。
意味が分からぬものは、判断を遅らせる。
判断が遅れれば、戦は勝つ。
景虎姉上の軍略は、いつも人の“心”を先に殺す。
恐怖、焦り、疑心暗鬼。
それを敵に食わせ、胃を痛くさせる。
――だから姉上は、軍神だけでなく、たぶん医者でもある。
元康は怖がっている。
初陣が大戦。そりゃ胃も痛む。
だが、怖がる者は伸びる。
怖くないふりをする者は、だいたい折れる。
今日、いちばん嬉しかったのは、
元康が「景虎姉上の言葉」を、そのまま真似せず、
自分の言葉で家臣に説明していたこと。
三河武士は頑固だ。
だが、納得したら、鉄より曲がらぬ。
今川は九千で出た。
遠江で集まりが鈍い。
噂は効いている。無税は強い。腹は正直だ。
戦はまだ始まっていない。
だが、地面にはもう勝ち筋が刻まれている。
土嚢は積まない。
今は置くだけ。
――そして、積むのは勝利だ。
(狂犬記・作者 桃)




