127話 刈谷に旗が立つ
西暦1554年10月10日(和暦:天文二十三年・十月中旬ごろ)
(三河・刈谷城/尾張一円)
秋は、空が高い。
だが戦が近いと、空の高さが余計に腹立たしい。
三河・刈谷城。
猿渡川の流れはいつも通り、堀端の葦も揺れているのに――城下だけが妙に騒がしい。
朝から、馬のいななきが多い。槍の穂先が陽を弾く。鎧の革が軋む音が、町の息を奪っていく。
そして、旗。
織田の旗が、刈谷に棚引いた。
それは「守り」の旗ではない。
「ここは織田が噛んだ」と、周囲に見せつける“宣言”の旗だ。
旗の下で、入城してきたのは――
織田家の武の象徴、柴田権六勝家。
兵は千。数としては派手ではない。だが、勝家が千を連れてくるのは「千で足りる」と言っているのと同じだ。
刈谷の守備は、熱田・鳴海の狂犬筋が整えた土塁と水堀、そして“人”で持つ腹だった。
そこに、勝家が後詰として座る。
勝家は口数が少ない。だが、いるだけで空気が締まる。
城下の者が言う。「あの方が来たなら、刈谷は落ちん」と。
一方――尾張。
噂は噂を呼び、噂が兵を生む。
「今川義元が四万で尾張へ出る」
「織田討伐だ」
「海道一の弓取りが、いよいよ本気だ」
この“噂”が、尾張を割った。
岩倉の織田。
犬山の織田。
同じ織田を名乗りながら、腹が違う。
彼らは動揺し、信長に背を向け、“反信長”を表明した。
そして今川へ使者を飛ばす。
雪斎へ、頭を下げる。
「味方いたします」
「織田信長を討つなら、道を開きます」
戦国の小ネタで言うなら、ここが一番“ありがち”だ。
強者が動くと、弱者は先に媚びる。
だが“ありがち”は、最も読みやすい。
読みやすいものは、利用しやすい。
正月。
熱田で、狂犬お市と信長が密談した作戦。
その骨格は「敵を動かし、味方を割らせ、最後にまとめて刈り取る」。
今まさに、その通りに進んでいた。
……ただし、一部、想定外が混じった。
蹴鞠殿、今川氏真。
風流が戦の盤面に乗ると、盤面が一瞬ぬるっと滑る。
けれど信長は、その“ぬるっと”すら面白がる男だった。
清洲の奥。
信長は丹羽長秀に向かって笑い転げていた。
腹を抱えて、涙まで浮かべているのに――手汗だけは止まらない。
興奮。
武者震い。
戦が好きな男の、抑えきれない生理だ。
「……胃は痛くない。手が、やばい」
そんなことを言いながら、信長は兵を鍛え上げてきた。
槍を揃え、弓を揃え、火縄も整え、合図の体系も整えた。
勝つための準備ではない。
“勝ったあと”まで見える準備だ。
その頃――三河。
松平元康は、旗本先手役二百を組織した。
募集に対して、希望者は二百を超えた。
三河の者にとって、「元康が戻った」という事実だけで胸が熱い。
そこに“無税”と“買い取り”の匂いまで混じれば、若い男が集まらないわけがない。
だが、狂犬の返答は冷たかった。
「兵は少なくとも、精鋭無比」
数を削り、質を残せ。
――残酷に見えて、それが一番やさしい。
死ぬのはいつも“数”の方だから。
訓練は、地味で、しつこくて、胃にくる。
土嚢を人の肩ほどの高さまで積む。
前進しながら積む。
狭間を作る。
盾を組み、天井のように乗せ、弓を防ぐ。
隊列を崩さず、息を合わせ、同じ動きを何十回も繰り返す。
戦国時代の“派手な槍働き”は物語の華だ。
だが現実の勝敗は、こういう泥くさい反復で決まる。
元康も忠次も、兵に混じって汗を流した。
二人とも、興味深い。
同時に、懐疑的でもある。
「こんな積み木みたいな訓練で、戦が変わるのか」
そう思った瞬間、元康は気づく。
――変わるのは戦ではない。
“恐怖の種類”が変わる。
前は、敵が怖かった。
今は、“自分が崩れること”が怖い。
だから反復する。反復は心を縫い止める。
大戦が始まる前。
元康の手も、また震えていた。
ただ、その震えは、昔の人質の震えではない。
自分の意思で立つ男の、震えだった。
刈谷に旗が立った。
尾張に噂が走った。
三河に汗が落ちた。
大戦は、もう始まっている。
まだ矢も飛んでいないのに。
巻末 狂犬記(桃の日記)
天文二十三年 十月中旬ごろ/西暦1554年10月10日 夜 熱田(鳴海近く)
今日は、空が澄みすぎていた。
澄んだ空は、血をよく映す。だから嫌いだ。
朝、刈谷に織田の旗が立った。
勝家が千を連れて入ったと聞いた瞬間、胸の奥が「カチ」と鳴った。
刈谷が固まる音だ。
勝家の千は数ではない。質でもない。
“覚悟の値札”だ。
あれを見た城下は、逃げ道を捨てる。捨てた者は強い。
尾張は、割れた。
岩倉と犬山が今川へ擦り寄ったという。
うん、よい。
裏切りは腹が立つが、裏切りは読みやすい。
読みやすいものは、こちらの仕事を減らす。
信長兄上は笑っているそうだ。
丹羽長秀と腹を抱えて、蹴鞠殿の一件を面白がっているらしい。
……笑う余裕があるのは、準備があるからだ。
でも、手汗が止まらぬとも聞いた。
あの人は、戦が始まる前が一番うるさい。
始まったら静かになる。
静かになった信長は、怖い。
元康は、旗本先手役二百を作った。
応募はもっとあったのに、削ったと聞いた。
削るのはつらい。
だが、削れぬ者に戦は預けられぬ。
訓練内容の報告が、実に“いやらしい”ほど地味でよかった。
土嚢を積む。
前進しながら積む。
狭間を作る。
盾を天井にして弓を防ぐ。
それを何十回も繰り返す。
華がない。
武将の夢もない。
だが、勝つ匂いがする。
景虎姉上は、これを見て「足りぬ」と言った。
姉上はいつも足りぬと言う。
足りぬと言える者は、勝てる。
それにしても――
姉上が軍神で、歌までうまくて、手も早くて、帳面も読めて、しかも顔が良いのは、さすがに盛りすぎだと思う。
わらわは医者として言う。
才能の偏りは、健康に悪い。嫉妬が出る。
だから今日、姉上に小さな仕返しをした。
夕餉の汁に、七味を多めに入れた。
姉上がむせた。
すぐに平静を装った。
かわいい。
戦の前に、こういう“くだらぬ余裕”は必要だ。
人は張り詰めすぎると折れる。
折れた骨は治せるが、折れた心は時間がかかる。
明日も、風を動かす。
噂も、旗も、汗も、全部こちらの縄に絡め取る。
狂犬は吠えるだけではない。
噛む場所を選ぶ。
(狂犬・桃)




