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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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129/150

127話 刈谷に旗が立つ

西暦1554年10月10日(和暦:天文二十三年・十月中旬ごろ)

(三河・刈谷城/尾張一円)

秋は、空が高い。

だが戦が近いと、空の高さが余計に腹立たしい。

三河・刈谷城。

猿渡川の流れはいつも通り、堀端の葦も揺れているのに――城下だけが妙に騒がしい。

朝から、馬のいななきが多い。槍の穂先が陽を弾く。鎧の革が軋む音が、町の息を奪っていく。

そして、旗。

織田の旗が、刈谷に棚引いた。

それは「守り」の旗ではない。

「ここは織田が噛んだ」と、周囲に見せつける“宣言”の旗だ。

旗の下で、入城してきたのは――

織田家の武の象徴、柴田権六勝家。

兵は千。数としては派手ではない。だが、勝家が千を連れてくるのは「千で足りる」と言っているのと同じだ。

刈谷の守備は、熱田・鳴海の狂犬筋が整えた土塁と水堀、そして“人”で持つ腹だった。

そこに、勝家が後詰として座る。

勝家は口数が少ない。だが、いるだけで空気が締まる。

城下の者が言う。「あの方が来たなら、刈谷は落ちん」と。

一方――尾張。

噂は噂を呼び、噂が兵を生む。

「今川義元が四万で尾張へ出る」

「織田討伐だ」

「海道一の弓取りが、いよいよ本気だ」

この“噂”が、尾張を割った。

岩倉の織田。

犬山の織田。

同じ織田を名乗りながら、腹が違う。

彼らは動揺し、信長に背を向け、“反信長”を表明した。

そして今川へ使者を飛ばす。

雪斎へ、頭を下げる。

「味方いたします」

「織田信長を討つなら、道を開きます」

戦国の小ネタで言うなら、ここが一番“ありがち”だ。

強者が動くと、弱者は先に媚びる。

だが“ありがち”は、最も読みやすい。

読みやすいものは、利用しやすい。

正月。

熱田で、狂犬お市と信長が密談した作戦。

その骨格は「敵を動かし、味方を割らせ、最後にまとめて刈り取る」。

今まさに、その通りに進んでいた。

……ただし、一部、想定外が混じった。

蹴鞠殿、今川氏真。

風流が戦の盤面に乗ると、盤面が一瞬ぬるっと滑る。

けれど信長は、その“ぬるっと”すら面白がる男だった。

清洲の奥。

信長は丹羽長秀に向かって笑い転げていた。

腹を抱えて、涙まで浮かべているのに――手汗だけは止まらない。

興奮。

武者震い。

戦が好きな男の、抑えきれない生理だ。

「……胃は痛くない。手が、やばい」

そんなことを言いながら、信長は兵を鍛え上げてきた。

槍を揃え、弓を揃え、火縄も整え、合図の体系も整えた。

勝つための準備ではない。

“勝ったあと”まで見える準備だ。

その頃――三河。

松平元康は、旗本先手役二百を組織した。

募集に対して、希望者は二百を超えた。

三河の者にとって、「元康が戻った」という事実だけで胸が熱い。

そこに“無税”と“買い取り”の匂いまで混じれば、若い男が集まらないわけがない。

だが、狂犬の返答は冷たかった。

「兵は少なくとも、精鋭無比」

数を削り、質を残せ。

――残酷に見えて、それが一番やさしい。

死ぬのはいつも“数”の方だから。

訓練は、地味で、しつこくて、胃にくる。

土嚢を人の肩ほどの高さまで積む。

前進しながら積む。

狭間を作る。

盾を組み、天井のように乗せ、弓を防ぐ。

隊列を崩さず、息を合わせ、同じ動きを何十回も繰り返す。

戦国時代の“派手な槍働き”は物語の華だ。

だが現実の勝敗は、こういう泥くさい反復で決まる。

元康も忠次も、兵に混じって汗を流した。

二人とも、興味深い。

同時に、懐疑的でもある。

「こんな積み木みたいな訓練で、戦が変わるのか」

そう思った瞬間、元康は気づく。

――変わるのは戦ではない。

“恐怖の種類”が変わる。

前は、敵が怖かった。

今は、“自分が崩れること”が怖い。

だから反復する。反復は心を縫い止める。

大戦が始まる前。

元康の手も、また震えていた。

ただ、その震えは、昔の人質の震えではない。

自分の意思で立つ男の、震えだった。

刈谷に旗が立った。

尾張に噂が走った。

三河に汗が落ちた。

大戦は、もう始まっている。

まだ矢も飛んでいないのに。

巻末 狂犬記(桃の日記)

天文二十三年 十月中旬ごろ/西暦1554年10月10日 夜 熱田(鳴海近く)

今日は、空が澄みすぎていた。

澄んだ空は、血をよく映す。だから嫌いだ。

朝、刈谷に織田の旗が立った。

勝家が千を連れて入ったと聞いた瞬間、胸の奥が「カチ」と鳴った。

刈谷が固まる音だ。

勝家の千は数ではない。質でもない。

“覚悟の値札”だ。

あれを見た城下は、逃げ道を捨てる。捨てた者は強い。

尾張は、割れた。

岩倉と犬山が今川へ擦り寄ったという。

うん、よい。

裏切りは腹が立つが、裏切りは読みやすい。

読みやすいものは、こちらの仕事を減らす。

信長兄上は笑っているそうだ。

丹羽長秀と腹を抱えて、蹴鞠殿の一件を面白がっているらしい。

……笑う余裕があるのは、準備があるからだ。

でも、手汗が止まらぬとも聞いた。

あの人は、戦が始まる前が一番うるさい。

始まったら静かになる。

静かになった信長は、怖い。

元康は、旗本先手役二百を作った。

応募はもっとあったのに、削ったと聞いた。

削るのはつらい。

だが、削れぬ者に戦は預けられぬ。

訓練内容の報告が、実に“いやらしい”ほど地味でよかった。

土嚢を積む。

前進しながら積む。

狭間を作る。

盾を天井にして弓を防ぐ。

それを何十回も繰り返す。

華がない。

武将の夢もない。

だが、勝つ匂いがする。

景虎姉上は、これを見て「足りぬ」と言った。

姉上はいつも足りぬと言う。

足りぬと言える者は、勝てる。

それにしても――

姉上が軍神で、歌までうまくて、手も早くて、帳面も読めて、しかも顔が良いのは、さすがに盛りすぎだと思う。

わらわは医者として言う。

才能の偏りは、健康に悪い。嫉妬が出る。

だから今日、姉上に小さな仕返しをした。

夕餉の汁に、七味を多めに入れた。

姉上がむせた。

すぐに平静を装った。

かわいい。

戦の前に、こういう“くだらぬ余裕”は必要だ。

人は張り詰めすぎると折れる。

折れた骨は治せるが、折れた心は時間がかかる。

明日も、風を動かす。

噂も、旗も、汗も、全部こちらの縄に絡め取る。

狂犬は吠えるだけではない。

噛む場所を選ぶ。

(狂犬・桃)

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