126話 風の噂、軍の影
西暦1554年10月10日(和暦:天文二十三年・十月中旬ごろ)
(駿河・遠江・三河)
秋が深まると、稲の匂いが甘くなる。
だが――戦の匂いは、稲より先に立つ。
駿河、遠江、三河。
三国の街道と湊と宿場には、行商人が増えていた。
塩、紙、針、薬、反物、干し魚、南蛮渡りの小物……何でも売る。何でも買う。
そして、何よりも「話」を運ぶ。
誰が狂犬堂の者で、誰がただの商人か。
もはや、区別がつかない。
今川方の役人が改めようとしても、名寄せの帳面が追いつかない。
寺へ泊まる者もいれば、宿へ泊まる者もいる。顔は毎日変わり、言葉も毎日変わる。
噂は、最初は笑い話だった。
「岡崎は無税になるらしいぞ」
「水田も畑も無税? そんな馬鹿な」
「狂犬がそう言うなら、あり得る」
「その代わり治水と治山に出ろ、って? ……それ、むしろ助かるやつだろ」
笑い話は、いつの間にか“希望”に変わる。
希望は、刀より鋭い。
人は希望のためなら、昨日の主を見捨てる。
その希望の形は、さらに具体的に囁かれた。
「松平元康が動いてる」
「三河の村を回ってる」
「今川を見限れ、って?」
「いや、こうだ。“無税でよい。だが農のやり方は変えろ”って」
そして噂は、城へ刺さる。
「引馬城が織田についた!」
「二俣城が織田についた!」
「織田の者が出入りしてるのを見た!」
「夜に荷が入った、火薬だ、米だ、銭だ!」
真偽など、どうでもいい。
“そう聞こえる”ことが致命傷になる。
なぜなら今川家臣団は、武でまとまった集団ではない。
名門の誇り、利害の綱引き、恩賞の不足、疑心暗鬼――
政治で保ってきた組織は、政治で崩れる。
駿府の評定の間。
義元の前に並ぶ顔は、硬い。
だが硬いのは覚悟ではなく、腹の中の恐れだ。
「……三河が、無税と申すか」
誰かが呟く。
その一言で、場がざわつく。
無税。
それは“攻め落とす”より厄介な言葉だ。
雪斎は、淡々と報告を重ねた。
「流言飛語が広がっております。
反乱、謀反、調略。
どれも、確証より先に“疑い”が走っております」
寿圭尼は、義元の横で静かに座していた。
母は言葉で押さえるのではない。
母が黙っているだけで、義元は引けなくなる。
義元は理解していた。
今この状況は、城が落ちたのではない。
心が落ちている。
「――動員をかける」
義元の声は低い。
だが、決まった。
軍は“噂”を鎮めるために動く。
それは、噂に勝てなかった証でもある。
武で押し返すしかない段階まで、追い込まれている。
動員令が出れば、もう止まらない。
兵糧の算段、道の手配、城の留守、諸将の面子。
軍は巨大な生き物だ。一度起きれば、眠らせるのは難しい。
そして、狂犬堂の行商人たちは――
その“起きた”を、さらに大きな音で各地へ運び始める。
「義元が動くぞ」
「怖いのは義元じゃない、雪斎だ」
「だが、今川は焦っている」
「焦った軍は、必ず隙を見せる」
風が、次の風を呼ぶ。
秋の空は高いのに、地上の空気だけが、やけに重い。
巻末 狂犬記(桃の日記)
天文二十三年 十月中旬ごろ/西暦1554年10月10日 朝 熱田
朝、味噌の香りで目が覚めた。
戦の前は、腹を温めるに限る。冷えた腹は判断を誤る。これは医者としての見立てでもある。
昨夜のうちに、諜報行商人たちが戻った。
手には荷、口には噂、目には地図。
いつも通りだが、今日は“風の重さ”が違う。
駿河と遠江と三河。
もう、何人入っているか数えるのをやめた。
数えた時点で負ける。
数とは管理の道具だが、風は管理できぬ。風は、起こすもの。
報告は、だいたいこうだ。
・「引馬が織田についた」
・「二俣が織田についた」
・「城に織田の者が出入りしている」
・「三河が無税になる」
・「松平元康が村を回っている」
・「今川の家臣団が疑心暗鬼で割れている」
半分は誇張、半分は嘘、そして全部が効く。
噂とは、真実で殴るのではない。
“心の弱いところ”を叩く。
今日いちばん効いているのは、やはり「無税」だ。
武者は槍で動くが、百姓は腹で動く。
腹が満ちる匂いを嗅いだら、昔の主への忠義など、薄紙になる。
それは責める話ではない。生きるとはそういうこと。
義元が、動員をかけたという。
うん。そう来る。
義元は面子で動く。
面子を削り続けたのは、わらわだ。削った分、必ず噛みついてくる。
ただし――噛みつき方が問題だ。
焦った大軍は、重い。遅い。補給に泣く。道で揉める。将同士で張り合う。
そして、雪斎が締めれば締めるほど、下は息が詰まる。
景虎姉上は、朝から帳面を開いて、兵站の線を引いた。
姉上の指が止まったのは一度だけ。
「ここ。噂が集まる。だから兵が集まる。だから隙ができる」
……諸葛亮が赤子扱いなの、わかる。説明が短いのに、全部入っている。
藤吉郎は、また顔が真剣だった。
「お市様の意図は……“軍を動かすため”じゃなく、“軍を動かした後に崩すため”か」
よく考える。良い。
こういう男が、国を太らせる。
わらわは今日、決めたことがある。
噂を、もう一段だけ“具体”にする。
人は具体に弱い。
「無税」だけでは夢だ。
「無税で、米を買い取ってもらえる」まで言えば現実になる。
現実になった瞬間、今川の城は“石垣の内側から”崩れる。
胃が痛い?
うん、痛い。
でも痛いのは、生きている証だ。
痛いまま、吠える。吠えて、噛む。
今日も狂犬、健在。
(狂犬・桃)




