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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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125話 今川義元

西暦1554年9月30日 朝(和暦:天文二十三年・九月末ごろ)

(駿河国・駿府)

秋の匂いが、駿府の朝に混じりはじめていた。

とはいえ、今川館の空気は季節など無関係に重い。畳に沈むような圧が、廊下から評定の間へ、じわじわと満ちている。

八月――松平元康が、狂犬に奪われた。

そして、あの悪趣味で、腹の立つほど目立つ狂犬旗が、駿府にたなびいた。

町には立て札、張り紙、落書きまがいの挑発。民の口は軽く、噂は風より速い。

今川義元は、朝からほうを整えながら、己の胃の奥が熱を持つのを感じていた。

怒りだ。だが、怒りだけではない。

「今川の顔」に泥を塗られた――その屈辱が、怒りに理屈を与えていた。

評定の間には、三人の核が座していた。

大原雪斎。

宗教者の顔をしながら、軍略と政務の刃を持つ男。今川の背骨だ。

寿圭尼。

義元の母。今川という家そのものを背負い、家を保つためには、息子の心すら整える。

柔らかな声で、逃げ道を塞ぐ。

そして、義元。

海道一の弓取り――と世は言う。

だが、義元が勝ち残ってきた道は「政治」の道だ。圧力と統制、そして粛清。軍事の勝利より、内部の整列で国を守ってきた。

「――密偵の報告です」

雪斎が、淡々と文を読み上げる。

評定の間にいる重臣たちの目が、微かに動く。

「氏真様は、熱田にて、阿国なる者と行動を共にし……芸、蹴鞠、連歌、絵画、茶の湯……文化にまみれて、生き生きとしている、と」

その言葉で、義元の頬が、ほんのわずかに引きつった。

生き生き。

その二文字は、今川の恥辱を飾り立てる、最悪の装飾だった。

嫡男がさらわれたのではない。

嫡男が「向こうで楽しんでいる」。

これが世に広まれば、今川は笑い者になる。

寿圭尼が静かに息を吐き、義元を見た。

「母の目」というのは、怒りを煽るのではなく、怒りに正当性を与える。

「義元。……家の恥は、家で拭うしかありません」

雪斎は言葉を足さない。

ここで雪斎が熱くなると、義元は勢いで動く。

雪斎は、義元に“動く理由”を渡し、動き方を制御する役だ。

義元は、拳を握り、そして開いた。

評定の間の空気を、言葉で叩き割る。

「大軍を起こす。狂犬を屠る」

重臣がざわめく。

駿河・遠江・三河、三国の太守としての力を示すには十分な宣言。

だが、その裏には別の意図がある。

「恥を雪ぐ」ために、勝たねばならぬ。勝ち方も、見せねばならぬ。

雪斎が、薄く目を細める。

「討つならば、道筋を整えねばなりませぬ。

戦とは、兵より先に“評判”が走りまする」

寿圭尼が頷く。

この二人は、義元が激情だけで走らないように、両脇を締める。

だが――締めるほど、義元は「面子」の方向へ固くなる。

その時。

障子が、強く開いた。

入ってきたのは、女。

華やかなのに、冷気を纏う。

早川殿――氏真の正室。北条氏康の娘。

評定の間の空気が、一段冷えた。

「……父上」

声は礼を保っている。だが、目が礼を捨てている。

怒りが、刀のように光っていた。

義元が、目を動かしただけで応える。

家の内側の問題を、家の外側(北条)の血が持ち込む。

これがどれほど厄介か、義元も雪斎も寿圭尼も理解している。

早川殿は、評定の面々を見回し、言葉を切った。

「氏真殿が……熱田で“生き生きしている”と?」

その場の全員が、心の中で同じことを思った。

――そこを刺すのか。

寿圭尼が、早川殿に向けて柔らかな声を出す。

「早川殿。心を乱してはなりませぬ。今は――」

「乱れるに決まっております」

遮った。

北条の姫は、今川の空気を読まない。読めるが、読んだ上で踏む。

「氏真殿は今川の嫡流。

それが、さらわれ、芸にまみれ、蹴鞠で笑っている――

この恥を、誰がどう落とすのですか」

言葉の刃は、義元ではなく、評定の全員に向いていた。

義元の怒りが「家の面子」なら、早川殿の怒りは「実家の顔」だ。

そして「顔の怒り」は、妥協を嫌う。

雪斎が、ゆっくりと口を開いた。

「ゆえにこそ、義元公は兵を起こすと申された。

熱田の狂犬を討ち、氏真様を取り戻し、世の笑いを断つ」

早川殿は、一瞬、雪斎を見た。

その視線は、まるで値踏みだ。

「……勝てるのですね」

雪斎は表情を変えない。

「勝たねばなりませぬ」

寿圭尼が、評定の流れを自分の掌に戻すように、言葉を添える。

「早川殿。氏真は必ず戻します。

今川の家は、北条の顔を汚すような真似は致しませぬ」

早川殿は、短く息を吐いた。

納得ではない。

ただ、「言質」を取っただけだ。

そして、その「言質」が――今川を戦へ押し出す楔になる。

義元は、心の奥で理解していた。

狂犬の挑発に乗るだけなら、まだ自分の判断だ。

だが、北条の娘が怒りを評定に持ち込み、母が家の名を掲げ、雪斎が勝利を約した。

もはや、引けば負け。

動かねば、今川は“笑いの家”になる。

義元は、低く言った。

「――準備を始めよ。

狂犬に、今川の戦を教える」

評定の間の畳が、わずかに軋む。

この瞬間、戦は始まった。

まだ槍は動かない。

まだ馬も走らない。

だが、評定の間で決まった“面子”と“顔”が、兵より重く国を動かしはじめた。

巻末 狂犬記(桃の日記)

天文二十三年 九月末だいたい/西暦1554年9月30日 朝 熱田

今朝の潮は、秋の匂いがした。

海って不思議じゃ。季節が変わると、匂いが変わる。人間より正直。

伊賀の者が、駿府の文を持ってきた。

読んで、わらわは笑った。

笑うしかない。

義元が動く。

雪斎が締める。

寿圭尼が座にいる。――あの母上、怖いの。やわらかい言葉で逃げ道を全部塞ぐ。

そして、早川殿が怒った。

北条の娘の怒りは、火事じゃ。

水をかけると蒸気で目を潰す。

火種を拾って丁寧に育てるしかない。

氏真(蹴鞠殿)は今日も機嫌がよい。

本人は「文化で国を救う」と本気で思っている。

……その心意気は嫌いではないが、胃が痛い。

景虎姉上は、文を読んだ瞬間に、全部の筋道が見えた顔をしていた。

軍略の天才とは、ああいう顔をするのだな。

諸葛亮も赤子扱い――と、わらわが言うのは大げさではない。

姉上は「敵の怒りの種類」まで分類して、次に起こる手を三手先まで並べる。

怖い。頼もしい。つまり最強。

わらわは決めた。

今川を釣るなら、槍ではなく、世間で釣る。

氏真には芸を磨かせ、阿国には舞を磨かせ、熱田の町に風を起こす。

敵が「正しさ」を着て攻めてくるなら、

こちらは「人の噂」を着て迎える。

今日の結論:

義元は釣れる。

だが――北条の嫁が混ざると、話は厄介になる。

よって、面倒は増えた。

面倒が増えた日は、勝ちが近い日でもある。

……さて。

朝餉は何にするか。

胃が痛い日は、味噌がよい。尾張の味噌で腹を固めて、今日も吠える。

(狂犬・桃)

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