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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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124話 紫陽花が咲き誇る三河の国

西暦1554年8月30日 朝(和暦:天文二十三年 八月下旬ごろ)

(残暑。朝の風だけが少し涼しく、日が昇ると一気に蒸す)

三河の道は、思ったより長い。

山と川が、いつまでも続く。――続くが、その山と川こそが、この国の胃袋であり、喉であり、命だった。

松平元康は、馬上から田を見ていた。

酒井忠次が隣で無言のまま、視線だけで周囲の気配を拾う。

水野信元は少し後ろで、村役人の顔色を読みながら、言い方を選んでいる。

――そして一行の後ろには、荷を負った行商人たちが、いつの間にか“ついてきている”。

行商人は名乗らない。

名乗らないのに、村の端に着くころには、誰が何を悩んでいるか、だいたい知っている。

伊賀の諜報行商人――狂犬堂の看板を出さぬ、個人商いの顔をした“噂の風”だ。

忠次が、低い声で言った。

「……もう、回っているな」

元康が小さく頷く。

「うむ。村に入る前から、皆の目が“こちら”を見ておる」

村の入口、寺の門前。

朝の勤めを終えたばかりの僧が、掃き掃除をしている。

そこへ、行商人の女が一人、自然に声をかけた。

「おはようさん。ほれ、塩と薬草茶。夏の汗にええよ」

僧が警戒していた顔を、ふっと緩める。

「……薬草茶、か」

「鳴海の人はみんな飲むんよ。胃が落ち着く」

「胃が……」

僧が苦笑いした。

「この頃、村中が胃が痛いわ。噂で腹がいっぱいだ」

女は笑う。

「噂は腹には溜まらん。けど心には溜まる。だから、ちゃんと“見て”決めな」

――その言葉が、今日の旅の骨だった。

■「無税」の文字が、人を怖がらせる

元康が各村で繰り返す口上は、同じだ。

だが、同じ言葉ほど、言い方ひとつで刃にも薬にもなる。

「水田無税。畑無税。――ただし、松平宗家元康の農業指導に従え」

村のおさが、額の汗をぬぐう。

「殿……“無税”など、そんなこと……」

「疑うのは当然じゃ」

元康は頷き、言葉を続けた。

「だから、条件をつける。治山治水は義務。農業共同組合を作り、皆が入る」

村の若者が、思わず口を挟む。

「組合って……結局、縛りやないか!」

忠次が眉を動かした瞬間、水野が一歩前に出た。

「縛りやない。“逃げ場”や」

水野は、鳴海で覚えた言い方を、そのまま使った。

「治水は、ひと村で抱えたら潰れる。

けど、村が束になれば“死なない”仕組みにできる。

やる奴と、逃げる奴が分かれたら、結局、やる奴が死ぬ。

だから、全員参加にする。――それが一番やさしい」

若者が口をつぐむ。

年寄りが、ぽつりと呟いた。

「……やさしい仕組みほど、怖いもんだ」

元康が苦笑いする。

「その通りじゃ。怖いから、帳簿をつける。

誰が何を出したか、誰が何を受け取ったか、残す。

言い逃れできぬが、裏切りもできぬ。――それでええ」

僧が、ゆっくり頷く。

「仏の教えも似ておるな。善行は積むもの。悪行も積むもの」

水野が小声で元康に言った。

「……殿、寺は強い味方になります」

忠次が、さらに小さく言った。

「寺は“情報”も集まる」

元康は、胸の奥がきゅっと痛くなった。

――三河を忘れたことなど、一度もない。

だが、三河が“自分を待っていた”ことを、こうして目で見せられると、涙が出そうになる。

■鳴海の“直線”が、三河の常識を折る

その日の昼、元康たちは鳴海の村へ案内した村人たちと合流した。

見学だ。噂ではなく、現物を見せる。

鳴海の道に入った瞬間、三河の農民が足を止めた。

「……道が、真っ直ぐだ」

「真っ直ぐ過ぎて、落ち着かん」

「川が、ちゃんと“川”しとる……」

田も畑も、水平直角一直線。

溝は詰まらず、畦は崩れず、用水は“音”が違う。

子どもたちが寺小屋へ走っていく。

「今日も無料ー!」

「筆が折れたら、狂犬堂が直してくれるー!」

「え、ほんまに?」

三河の子が目を丸くする。

鳴海の子が当然みたいに頷いた。

「うん。だって“勉強は武器”って狂犬様が言ってた」

大人の方は、もっと露骨だった。

市場の端で、鳴海の百姓が銭袋を叩いて笑っている。

「今年は鶏が増えたでな。卵が売れる売れる」

「唐芋が土からごろごろ出たわ。……怖いわ、あれ」

「馬鈴薯? あれは飢えん。飢えんと人が荒れん」

三河の農民が、ぽつり。

「……極楽浄土は、死んだあとにあると思うてた」

水野が笑う。

「鳴海にあるやろ。生きて見れる極楽は、強いぞ」

元康は、喉の奥が熱くなった。

葵の旗が、村にも街にも、城にも立っている。

自分の紋だ。

だが、それは“今川の鎖”ではなかった。

――生活の旗だった。

忠次が、元康の横で言った。

「殿。……この旗を、三河に増やしましょう」

元康は小さく息を吐き、頷いた。

「うむ。増やす。……増やして、守る」

■噂は、噂で終わらせない

夕刻、別の村。

村の女たちが、井戸端でひそひそ話をしている。

「ほんまに無税なん?」

「裏があるに決まっとる」

「でも鳴海の子ら、腹すかせてなかったで」

そこへ、通りかかった行商人の男が、さらっと混ざる。

「裏はあるよ」

女たちが一斉に睨む。

男は肩をすくめた。

「裏は“治水治山”や。あれをサボったら、秋の稲が死ぬ。

だから裏は“働け”ってこと。――当たり前やろ?」

女の一人が、むっとする。

「当たり前を、当たり前にやらせるのが難しいんや」

男は頷く。

「だから組合。逃げたら、村の目が逃がさん。

悪いこと言わん。鳴海を見てから決め」

そう言って、男は何事もなかったように去った。

“押し売り”もしない。

“命令”もしない。

――ただ、選択肢を並べる。

それが、狂犬堂の噂の流し方だった。

元康は、その背を見送りながら呟いた。

「……噂が、兵になっておる」

忠次が静かに答える。

「はい。戦の前に、民の腹を満たす。

腹が満ちれば、槍が揃う。――狂犬殿は、そこから始めている」

水野が笑った。

「三河の未来は、始まったってことですわ」

元康は、もう涙を止めなかった。

「……始まった。母上に、見せられる。ようやく……」

遠くで、紫陽花の名残が風に揺れている。

花の季節は過ぎても、青は消えない。

青は、覚悟の色だ。

狂犬記(桃の日記)

天文二十三年 八月下旬(西暦1554年8月30日) 朝 鳴海・三河境にて

三河へ、元康と忠次と水野を出した。

おだい殿は、鳴海で元康を見送るとき、手を震わせておった。

それでも顔は笑うておった。母とは、強いものじゃ。

三河の民は、疑う。

当然じゃ。

“無税”など、甘い餌に見える。

甘い餌で釣られて死んだ者を、皆見てきたのじゃろう。

だから、見せる。

噂は撒くが、噂で終わらせぬ。

鳴海を見せる。

道の真っ直ぐさ、溝の深さ、子の腹の丸さ。

銭袋の音。寺小屋の声。

飢えぬ村は、人の目が優しい。

元康が、鳴海の葵旗を見て、泣きそうになっておったと聞いた。

葵は、鎖にもなるし、屋根にもなる。

今日の葵は、屋根であれ。

雨を受け、日を遮り、民の畑を守る旗であれ。

伊賀の行商人たちは、相変わらず名乗らぬ。

名乗らぬが、仕事は正確じゃ。

噂を流し、反応を拾い、嘘と本音を分ける。

戦の勝ち負けは、刀より先に“腹”で決まる。

腹が満ちれば、民は怒らぬ。怒らねば、国は折れぬ。

紫陽花はもう盛りではない。

けれど、青は残る。

青は“諦めぬ”色じゃ。

三河が青くなるなら、義元は赤くなる。――血の赤ではない。焦りの赤じゃ。

次の戦の前に、まずは畑。

畑の前に、まずは心。

医師の仕事は、刀を振るうことではなく、折れぬ体と心を作ること。

わらわは今日も、よく眠れそうにない。

だが、それでよい。

眠れぬ夜の分だけ、民が眠れる。

それが、狂犬の仕事じゃ。

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