123話 われら狂犬家臣団 胃が痛い
西暦1554年8月20日 朝(和暦:天文二十三年 八月二十日ごろ)
(晩夏。蝉の声がうるさく、朝の空気だけ少しだけ涼しい)
三日休みが終わった。
たかが三日、されど三日。――人は、ぬるま湯を知ると戻れなくなる。
鳴海城下、朝の稽古場。
土の匂いと汗の匂いに、火薬の匂いが混ざる。
「うわ、もうこの匂いだけで胃が痛い」
利家が腹を押さえる。真面目に押さえる。顔が青い。
慶次が、笛を指で回しながら笑った。
「利家、腹が痛いんやなくて、心が折れとるんやろ」
「折れてないわ! まだ……まだ角は残ってる!」
「角て何や。お前は鬼か」
「鬼の方が楽なんだよ……景虎姉上が“軍神”で、うちは“人間”なんだよ……」
その“軍神”が、稽古場の端に現れた。
頭に純白の頭巾。藍色の鎧。――お市が縫わせた、あの妙に軽くて動きやすい鎧。
青鹿毛の駿馬「雪風」に跨り、すっと視線を流すだけで、場の空気が締まる。
長槍が一斉に地面を叩いた。
火縄銃の隊列が音もなく整う。
犬かき衆――軽装のまま走り回る連中が、泥だらけで笑いながらも、足だけは止めない。
景虎が淡々と言った。
「今日の課目は三つ。
一、火縄銃の早合、三段前進射撃。
二、慶次の騎馬遊撃を“釣り針”に見立てた囮運用。
三、槍隊は“槍翼陣”――突撃の形を固定せず、翼を入れ替える。敵に読ませない」
利家が目を丸くする。
「……読ませないって、そんな簡単に言うなよ」
景虎は、利家の顔色を見て、少しだけ眉を下げた。
「簡単ではない。だから“失敗していい点”を決める」
「失敗していい点?」
藤吉郎が首を傾げる。いつもの癖で、考える顔が早い。
景虎は、馬上から地面に小石を投げ、線を引いた。
「隊列が乱れる。――これは、兵が悪いのではない。
“乱れた時に、どこが最初に崩れるか”を見れば、直す場所が一目で分かる」
慶次が口笛を吹いた。
「こわ。先生、こわ」
「怖がるな。矢も銃も、怖いのは最初だけだ」
「いや、姉上が一番こわ……」
利家が言いかけて、慶次に肘で突かれた。
「口は災いの元やで」
火縄銃の隊が前へ。
合図は、景虎の指一本。
「――一段、撃て」
乾いた破裂音。煙。
「二段、前へ。早合」
背負袋から早合を抜く動きが揃わない者がいる。
景虎がすぐに指を振った。
「止め。いまの、袋の口が甘い。雨の日に死ぬ」
利家が眉間に皺を寄せる。
「やっぱ袋か……」
藤吉郎が腕組みした。
「背負袋の縫い目の位置、変えた方がええな。中村の朝日と木下仲に言うとく」
景虎は頷く。
「“兵の失敗”は、八割“道具の設計”だ。恥じるな」
慶次がニヤッとした。
「利家、怒られとるようで、褒められとるで」
利家が呻く。
「……褒められるほど胃が痛い」
犬かき衆がゲラゲラ笑った。
笑い声が出るのが、こいつらの強みだ。
稽古場の外では、鳴海の空に薄い雲が流れ、伊勢湾から湿った風が入ってくる。
「義元釣り出しは農閑期」――お市の言葉が、皆の頭に刺さったまま抜けない。
想定戦場は刈谷城外、猿渡川の東。
川沿いのぬかるみ、葦の背丈、風向き。
尾張と三河の境目は、いつだって“地形が性格悪い”。
だからこそ、景虎が怖い。
地形を見て、兵の心まで先に見て、策を削っていく。
一方そのころ、鳴海城――評定の間。
お市は、少しだけ声の調子を変える。
戦場の声ではなく、役所の声だ。
水野信元、おだい、松平元康、酒井忠次を前に座らせる。
元康は、畳に手をついて頭を下げた。
おだいは、まだ涙の跡が消えず、しかし背筋は真っ直ぐだ。
水野は、腕が震えているのを隠すように袖を握りしめている。
忠次だけが、静かに呼吸を整えた。――こういう時に一番怖い男だ。
お市が言う。
「元康。そなたは、わらわの直轄――総合奉行になってもらう」
元康が息を呑む。
「わ、わたしが……」
「うむ。まずは学べ。水野と、おだい殿から。忠次と三河を回れ」
忠次が確認するように問う。
「回る先は」
「各村、各街、各城、各寺。――“説得”じゃ」
お市は指を立てる。
「三河は、水田無税、畑無税。だが、条件がある」
水野が思わず口を挟む。
「条件……」
「元康の農業指導に従うこと。従えば、作物は狂犬堂が買い取る。
ただし義務として、治山治水に参加せよ。
農業共同組合を作り、三河の農民を皆参加させる」
元康の目が揺れた。
「……無税、は……反発もある。人は、ただを疑う」
「だから“帳簿”じゃ」
お市が笑う。にこにこ、だが目は真剣。
「収支を見せよ。治山治水は農家の死線。誰が汗をかいたか、誰が怠けたか、全部残す。
不満は“闇”で育つ。数字は“明るい”」
忠次が小さく頷いた。
「承知。では、治水の段取りと、人夫の配分を――」
「うむ、忠次は話が早い」
お市は続ける。
「元康は旗本先手役二百を組織せよ。わらわの戦には必ず参加。給金は銭で払う」
元康が顔を上げた。
「……銭で、ですか」
「そうじゃ。石では腹は満ちぬ。銭なら鍬も買える。薬も買える。
――そなた、漢方が好きじゃろ」
元康の顔が赤くなった。
「……はい」
「薬草も、畑に植えよ。三河の湿りは“薬の庭”になる」
おだいが、ふっと笑った。
「元康、良かったね。好きなものが“役”になる」
元康は、こらえるように笑って、目を伏せた。
その日の昼、稽古場に戻ると。
利家と慶次と藤吉郎が、揃って地面に座っていた。
顔が、死んでいる。
お市が近づく。
「どうした。腹でも壊したか」
利家が泣きそうな顔で言った。
「狂犬様が……優しいんだよ……」
「……は?」
慶次が肩を落とす。
「叱られると思ったら、姉上が“失敗していい点”とか言い出して、胃が……」
藤吉郎が深刻に頷く。
「わし、優しさが一番こわいわ」
お市は、しばらく黙ってから、にこっとした。
「安心せい。わらわは、優しいが、甘くはない」
三人が同時に叫んだ。
「それが一番こわい!!」
犬かき衆が爆笑した。
遠くで雪風が鼻を鳴らし、景虎が静かにこちらを見ている。
その視線だけで、利家は立ち上がった。反射で。
「よし……やるぞ……」
慶次が笛を構えた。
藤吉郎が槍を持つ。
そして、景虎が淡々と命じる。
「――三段。前へ」
夏の空気が、火薬の煙で白くなる。
胃は痛い。
だが、痛い分だけ、生きている。
狂犬記(桃の日記)
天文二十三年 八月二十日(西暦1554年8月20日) 朝 鳴海にて
三日の休みが終わった。
家臣どもが、目で「勘弁してくれ」と言うておる。口では言えぬのじゃ。かわいいのう。
(言うたら言うたで、わらわは笑うてしまうが)
景虎姉上が稽古場に立つと、空気が変わる。
あれはもう、兵の心の“骨”を掴んで動かしておる。
軍神と呼ばれるのは伊達ではない。
けれど姉上は、わらわの横では“姉”で、少しだけ人の温度がある。
その温度が、兵を燃やす。
利家が胃を押さえておった。
慶次がからかっておった。
藤吉郎は、また難しい顔で何か考えておった。
――あれは、わらわの意図を知恵に変えようとしておる顔じゃ。働き者め。
評定では、元康を総合奉行に据えた。
元康の目は、まだ怯えと希望が混ざっている。
人質とはそういうものじゃ。
わらわは医師である。身体の傷も診るが、心の傷はなお時間が要る。
だから、仕事を渡した。責任を渡した。
責任は人を苦しめるが、同時に人を“自分”に戻す。
三河は無税にする。
ただし治山治水は義務。
米を守るのは刀ではない。山と川じゃ。
農民が汗をかく場所を、わらわは“戦場”と呼ぶ。
戦場を守れば、国は飢えぬ。飢えねば、人は争いを選びにくい。
そして、義元を釣り出す餌が増えた。
氏真――蹴鞠殿。風流文化人。厄介だが、使いようはある。
文化は人を油断させる。油断は、戦では武器じゃ。
今日は空気が湿っておる。
海の匂いがする。
紫陽花の季節は過ぎたが、心の中にはまだ青が残っておる。
――紫陽花は帰還した。
次は、義元じゃ。
わらわの家臣団よ。胃が痛いか。
よい。痛いなら生きておる。
生きておる限り、勝てる。




