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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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122話 紫陽花の歌 ――紫陽花、帰還。涙、帰還。蹴鞠、居座り。

西暦:1554年8月16日 朝

和暦:天文二十三年 八月下旬ごろ

場所:尾張・鳴海城(評定の間)

 鳴海の城下に、朝の鐘が落ち着いた音で鳴った。

 昨日までの緊張が嘘みたいに、空気が軽い。風が軽い。兵の足が軽い――いや、これは単に休暇が出たからだ。

「――紫陽花、帰還しましたァ!」

 評定の間の前で、門番がやたら張り切って叫ぶ。

 廊下の曲がり角で、慶次が肘で景虎の脇をつついた。

「なあ姉上、“紫陽花”って言い方、毎回ちょっと可愛くね?」

「符丁だ。かわいいかどうかは軍議で論じるな」

「論じてねえよ。感想だよ」

「感想なら胸にしまえ」

「胸にしまうと苦しいんだよ、俺の感想は暴れる」

 さくら・あやめ・せつなが、無言で慶次の背中を「はいはい」と押して進ませる。

 押され方が雑だ。慶次は楽しそうだ。

 評定の間――。

 そこに居たのは、帰ってきた“紫陽花”こと松平元康と、彼を抱きしめて離さない母・於大おだい

 抱きしめ方が、戦の勝ち鬨みたいに強い。

「元康……元康……! よぉ帰ってきた……!」

「は、母上……く、苦しい……嬉しいが……肋が……」

「黙りゃあ! 生きとるだけで百点じゃ!」

「百点はありがたいが、肋が折れると減点になる……!」

「折れても生きとりゃ百点じゃ!」

 於大の腕の力、下手な甲冑より強い。

 元康は半泣き半笑いで、最後は諦めて母の肩に額を落とした。

 その横で、水野信元が、顔ぐしゃぐしゃにして泣いていた。

 泣き方が武将のそれではない。泣く子のそれだ。

「狂犬様ァ……! この恩……! 命に代えても――!」

「おいおい、いきなり命を代えるな。軽いな命」

 評定の間の上座、狂犬お市様が腕を組み、涼しい顔で言う。

「命は代えるもんじゃない。使うもんじゃ。働け」

「は、はい……! 働きます……!」

「泣きながら働くな。帳簿が濡れる」

「濡れません! 涙は……袖で拭きます!」

「袖で拭いたら袖が濡れるじゃろ」

「……袖は、のちほど干します!」

 その“のちほど”が、戦国では死ぬほど信頼できないのだが、誰も突っ込まない。

 いまは全員、帰還の朝だ。生きてる朝だ。

 そして――厄介な客も、生きていた。

「いやぁ、鳴海って……ええなぁ……。空気がうまい」

 今川氏真。

 蹴鞠を抱えたまま、なぜか客人面で評定の間の柱を撫でている。

 撫でるな。柱は城の命だ。

 元康が目だけで忠次に助けを求める。

 忠次は無言で首を横に振った。

 無理だ、という首だ。

「氏真、ここはお前の別荘じゃない」

 元康が低い声で言う。

「別荘ではない。だが、風流はある」

「風流って言えば許されると思うな」

「許されると思ってない。感じている」

「感じるな、空気を読め」

「空気は読むものではない。吸うものだ」

「名言っぽくするな!」

 慶次が腹を抱えて笑う。

「元康さま、友だちがめっちゃ面倒くさいタイプじゃん」

「分かっておった……だがここまでとは思わんかった!」

「わらわは思っておった」

 お市様が、さらっと刺す。

「蹴鞠殿は、風流の皮を被った粘着じゃ」

「粘着!?」

「褒め言葉だ。離れない客は、使い道がある」

 景虎姉上が、淡々と頷く。

「……餌として」

「餌って言うな、姉上」

「餌だ」

「断定すな!」

 評定の間の空気が、泣きと笑いと胃痛で満たされる。

 戦が終わった時の、いちばん人間臭い匂いだ。

 ここで、お市様が手を叩いた。

「よい。まず、休暇じゃ」

 家臣たちが「おお……」とどよめく。

「狂犬家臣団、狂犬兵団、三日休め。朱印状、出してある」

「朱印状で休暇ァ!?」

 慶次が目を丸くする。

「殿、休暇って朱印状いるの!?」

「いる。要る。偽造が出るからな」

「休暇偽造って何!?」

「わらわの兵は働き者ゆえ、“休みを働いて稼ぐ”者が出る」

「それ、誉めてる? 褒めてない?」

「褒めておる。だが止める」

「止めるのが優しさだな……」

 さくらが小声で言う。

「休暇朱印状……欲しいです」

 あやめが即座にツッコむ。

「忍びは休暇が仕事やろ」

 せつながニヤッとする。

「じゃあ私ら、休暇中も“休む訓練”な」

「それ、ただの昼寝や」

「訓練や」

「言い張るな!」

 泣いていた水野が、やっと笑った。

 於大も涙を拭きながら、元康の頬を両手で挟む。

「元康、ほんまに……よぉ耐えた。偉かった」

「……母上」

「泣いてええ。今日は泣いてええ日や」

「……はい」

 元康が、とうとう涙を零した。

 忠次は、黙って立ち、目線だけを落とした。

 彼は“泣かない”のではない。“泣く場を守る”のだ。

 景虎姉上も、うっすらと目に水を溜めていた。

 普段、軍神の目は乾いている。だからその一滴は、戦より重い。

 氏真まで、鼻をすすった。

「……なんだ、この場。情が濃い。風流だ」

「風流って言えば何でも飲み込めると思うな」

元康が言うと、氏真は真顔で答えた。

「飲み込める。風流は万能」

「万能じゃない!」

「万能だ」

「うるさい!」

 その時――

 お市様が、評定の間の隅に置いていた長い包みを、すっと引き寄せた。

 骨太の津軽三味線。

 握れば、刀より重い。鳴らせば、心が折れるほど響く。

「……歌うか」

 お市様が、ぽつりと言った。

 慶次がぱっと顔を輝かせる。

「来た! お市様のやつ!」

 景虎姉上が、小鼓を取った。

「拍を入れる」

 慶次が笛を手にする。

「じゃ俺、合いの手も入れる」

「合いの手は黙れ」

「えっ」

「黙れ」

「はい」

 於大が不思議そうに見上げる。

「歌……?」

「労いじゃ」

 お市様は優しく言った。

「苦労を、労う。未来へ渡す。

 涙はな、ただの水じゃない。次の一歩の塩じゃ」

 お市様が弦を弾く。

 低い一音が、評定の間の梁を揺らした。

 心臓の奥を叩く音。

 景虎姉上が、小鼓を一つ、二つ。

 慶次の笛が、風のように入る。

 そしてお市様が歌う。

 『紫陽花の歌』――。

紫陽花の歌(作中歌)

(お市様が歌い、景虎姉上が後半から重ねる)

一番

雨に打たれて 黙って耐えて

名もなき日々を 数えてた

目立たぬ庭の 紫陽花ひとつ

それでも季節は 裏切らん

サビ

咲け 紫陽花 帰ってこい

泣け 泣いたら また立てる

誰のためでも ない日々が

誰かの明日を 守ってた

咲け 紫陽花 ここに咲け

生きて帰った それだけで

今日の空は 勝ち色じゃ

二番(景虎も重ねる)

剣を持つ手は 人を斬る手

けれど守る手にも なれる

名を隠す日々 息を殺す夜

それでも胸は 燃えていた

サビ(重ね)

咲け 紫陽花 帰ってこい

泣け 泣いたら また立てる

恥じゃないんだ 涙って

強さの奥の 優しさだ

咲け 紫陽花 ここに咲け

戦の先に 道がある

今日の空は 勝ち色じゃ

 歌が終わると、評定の間は、しんと静まった。

 静けさの中で、元康が声を震わせた。

「……姉上。

 その歌……お市殿の歌かと思うたが……景虎殿の声が……」

 景虎姉上が、少しだけ照れたように目を伏せる。

「……歌うのは、好きだ」

「軍神、歌も上手いのかよ……」

 慶次がぼそっと言う。

「姉上の才能、軍だけじゃないのう」

 お市様が笑った。

「姉上は姫武者じゃ。武だけの女ではない」

 景虎姉上の目が、青白く光った。

 戦の光じゃない。生きる方の光だ。

 氏真が、感動で涙を拭きながら、空気を読まずに言う。

「よし。余も蹴鞠の歌を――」

「やめろ」

「え?」

「やめろ」

「……やめる」

 元康と忠次が同時に言った。

 初めて二人の意見が一致した。

 お市様が、氏真を見て、にっこりする。

「蹴鞠殿。お前、文化を広めよ」

「……余は、当主の器ではないぞ」

「当主の器はいらぬ。文化の器になれ」

「器なら……自信がある」

「なら決まりじゃ」

「決まりなのか!?」

 元康が叫ぶ。

「決まりじゃ」

 景虎姉上が淡々と追撃する。

「餌として最適」

「餌って言うなぁ!」

 笑いが起きた。

 泣き声の間に、笑いが混じった。

 それが、国が生き返る音だった。

 お市様は三味線を膝に置き、於大へ向き直った。

「於大殿。元康どのは、これから忙しい」

「分かっとる」

「だから――今だけは、抱きしめてやれ」

「……言われんでも抱くわ」

 於大が、また元康を抱いた。

「ぐ、母上、また肋が……」

「折れても生きとりゃ百点!」

「その理屈、強すぎる!」

 評定の間に、朝の光が差し込んだ。

 紫陽花の色をした光だった。

狂犬記(桃の日記)

天文二十三年 八月下旬ごろ/鳴海城 朝

題:紫陽花は帰る。涙も帰る。蹴鞠は帰らない。

 紫陽花が帰還した。

 符丁やのに、ほんまに花が帰ってきたみたいで、私は好き。

 帰るって言葉は、戦国では重い。だからこそ、軽く言ってはいけない。

 でも今日は、言っていい日。帰った。生きて帰った。

 評定の間で、於大さまが元康さまを抱きしめてた。

 抱きしめ方が強い。母は強い。国より強い。

 元康さま、肋が折れそうやったけど、笑ってた。泣いてた。

 ああいう涙は、見てる側もほどける。

 水野さまが泣いて、忠次どのが泣かずに場を守って、

 景虎姉上が、目に水を溜めて――あの人の涙は、戦より怖い。

 怖いっていうのは、軽くないって意味。

 氏真が……氏真が泣いてた。

 あの人、厄介やけど、悪い人ではない。

 ただ、風流って言えば何でも許されると思ってる。

 それが厄介。ほんまに厄介。

 でも、お市様は、厄介を“使い道”に変える。

 人を捨てない。役を与える。器を作る。

 それが狂犬のやり方や。

 それから、お市様が三味線を出した。

 骨太の津軽三味線。音が、太い。

 心の奥の固いところを叩く音。

 歌は“紫陽花の歌”。

 未来へ渡す歌やった。

 景虎姉上が小鼓で入って、途中から歌も重ねた。

 ……姉上、歌が綺麗すぎた。

 軍神の声じゃない。姫武者の声や。

 姉上は、ほんまに“女として生きる”練習をしてる。

 それを見て、お市様が嬉しそうに笑ってた。

 私は思った。

 戦は人を壊す。

 でも、歌は人を戻す。

 今日、紫陽花が戻ったみたいに。

 追伸。

 氏真が「蹴鞠の歌を」と言い出した瞬間、

 元康さまと忠次どのが同時に「やめろ」と言った。

 あれは、今年いちばん息が合った瞬間やと思う。

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