第121話 厄介な客と芸能 ――蹴鞠ひとつで、国が動く
西暦:1554年8月14日 昼〜深夜
和暦:天文二十三年 八月中旬ごろ
場所:駿河沖〜遠州灘沿い(安宅船 船上)
昼の海は、紫陽花の色をしていた。
雨上がりの雲がまだ薄く残り、陽が差すたび、波が青から紫へ、紫から銀へと瞬く。
遠くに見える三河の海――そこに「帰る」と決めた男は、まだ緊張の中にいた。
松平元康。
長い人質の歳月は、武芸より先に“生き残りの作法”を彼へ叩き込んだ。
人の顔色を読む。空気を読む。毒を避ける。自分の薬は自分で作る。
身体を鍛え、書を読み、三河の山河と家臣と民を、心の底で一日も忘れない。
だからこそ――密書を読んだとき、胸の中で、いくつもの自分がぶつかった。
(期待する自分)
(また裏切られる自分)
(いや、自分は自分自身だと叱る自分)
甲板の上。潮風。
横を見る。
長尾景虎。越後の武神。軍神。
そして、もう片方を見たら――今川氏真。長年の友。
友が、蹴鞠を抱えている。
しかも、船旅に感動している。
「海って、ええなぁ……」
「……氏真、落ちるなよ」
「元康、余は蹴鞠が得意だぞ」
「得意でも落ちたら溺れるんだが」
酒井忠次が、元康の背後で、ため息とも笑いともつかぬ息を吐いた。
この男も、ずっと胃痛と友達だ。
元康は、忠次に低い声で聞く。
「忠次……あれは、どういう縁じゃ。
なぜ、長尾景虎殿が……狂犬殿の、姉上なのだ」
忠次は、視線だけで海を確認し、声を絞った。
「……“月下の誓い”だそうです」
「月下の……誓い?」
「姉妹になった、と」
「……姉妹」
「はい。義理の、です。血より濃い方の」
元康は言葉を失った。
戦国で、義理が血より重いときがあるのは知っている。
だが、それが“長尾景虎”に適用されるのは、想像の外だった。
忠次が続ける。
「景虎殿は、鳴海で帳簿を学び、農政を学び、軍略を学び……今は吸収が止まりません」
「……武神が帳簿」
「お市様が“帳簿は刀より人を救う”と申しておりました」
「……狂犬は、口が武器じゃな」
そのとき、船の中央で、声が上がった。
「九鬼どのー! 潮、読みやすい?」
狂犬お市様だ。
景虎姉上と並び、まるで海を庭にするような顔で、船頭と話している。
お市様は、甲板の板目に膝をつき、碁盤も無いのに作戦を敷く癖がある。
景虎姉上は、そこに石の代わりに言葉を置いていく。
元康と忠次は、あれを見てしまうと、背筋が勝手に伸びた。
軍議とは本来、こういう空気なのだと。
「景虎姉上、氏真は……どうする?」
「扱いは二つ。敵に返すか、味方に変えるか」
「返すのは簡単じゃが、もったいない」
「同感。文化人は“生かすと火力”になる」
お市様が、にこりと笑う。
「よし。氏真は“蹴鞠殿”にする」
「蹴鞠殿……」
「役職名が先じゃ。人は役を与えると、その役を守ろうとする」
「……軍略だな」
「軍略じゃ。文化を使った軍略じゃ」
景虎姉上が、淡々と補足する。
「捨扶持、一万石。熱田に置く」
「一万石!? 姉上、軽い顔で言うな」
「軽い顔で言うから、重く見える」
「逆じゃろ」
お市様は指を折った。
「熱田は人が集まる。海も近い。尾張の玄関口じゃ。
尾張の地元ネタを言うと、熱田は“ええとこ取り”じゃ。
参詣も、市も、船も――全部ある」
景虎姉上が頷く。
「芸能を置けば、さらに人が集まる。
人が集まれば金が動く。金が動けば兵糧が整う。兵糧が整えば戦は選べる」
「そうそう。氏真は、今川にいるより、日の本の文化のために働く方が向いておる」
「……口説く気だな」
「口説く。落とす。文化で包む」
「“包囲”だな」
「包囲じゃ」
元康は、思わず忠次に囁いた。
「……怖いのう」
「はい。あの二人は、刃を抜かずに城を落とします」
そして当の蹴鞠殿――氏真は、船縁で蹴鞠をぷいっと上げて遊んでいた。
「おお、見よ! 海風でも落ちぬ!」
ぽん、ぽん、と蹴鞠が軽く跳ねる。
慶次が寄ってきて、肩を揺らして笑った。
「おいおい、氏真殿。船上蹴鞠は、落としたら“海鞠”だぞ」
「海鞠とは風流だな」
「風流で済むの、おまえだけだわ」
伊賀の忍び――さくら・あやめ・せつなが、無言で完璧な位置取りをしている。
蹴鞠が落ちそうな角度を先読みし、目線だけで落下点を塞ぐ。
「……忍び、球拾いがうますぎる」
慶次がぼそり。
さくらが小声で返す。
「任務です」
「球拾いが?」
「はい」
あやめが続ける。
「“厄介な客のご機嫌維持”も任務です」
「なるほど、戦国だなぁ……」
夕刻、船は遠州灘を滑るように進んだ。
炊煙が上がり、潮の匂いに味噌の匂いが混じる。
船飯は派手ではないが、温い汁は心をほどく。
元康は、膳の前で固くなったままだった。
緊張は、飢えより手強い。
そこへ、お市様が座った。
膳の端に、薬包紙が二つ。
「元康どの。胃が痛い顔じゃ」
「……顔に出ておりましたか」
「出ておる。医者じゃから分かる。心の医者でもあるしの」
元康は、息を整えた。
この女の前では、言い訳が剥がれる。
「私は……三河へ帰る。だが、怖い。
今川を裏切るのではない。生き方を選ぶだけだ。
それでも、血が流れる。民が泣く」
「民はな、“腹”が泣くのが一番つらい」
「……腹」
「腹が満ちれば、涙は乾く。乾けば、次の朝に立てる。
わらわは、泣かせたくない。腹を満たす」
お市様は、薬包紙を指で押した。
「これは生姜と山椒。船酔いと胃に効く。
心はな、身体と繋がっておる。まず身体を守れ」
元康は、しばらく黙ってから、頭を下げた。
「……ありがたい」
「礼は三河の米で払え」
「……商人か」
「狂犬じゃからの」
深夜。
氏真は酔ってもいないのに、甲板で月を見ていた。
「元康。余はな……当主になりたくない」
「……なりたくないのに、次期当主じゃのう」
「重い。だが、文化は軽い。軽いから、空へ飛ぶ」
氏真の言葉に、景虎姉上がふっと笑った。
「軽いものは、人の心へ届く。
ならば、お前は“武”ではなく“芸”で国を支えよ」
お市様が、そこで決め手を打つ。
「氏真。熱田へ来い」
「熱田?」
「風流と芸能の都にする。蹴鞠も連歌も、全部、そこで咲かせる。
お前の名は“蹴鞠殿”。捨扶持一万石。
今川にいるより、日の本に残る仕事をせえ」
「……一万石は、重くないか」
「重い。だから価値がある」
「……余は、蹴鞠しかできぬぞ」
「蹴鞠で十分じゃ。蹴鞠は人を笑わせる。笑いは国力じゃ」
元康と忠次は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
これは“誘拐”ではない。
“転職”だ。
しかも国策の。
そして、お市様は、夜の海へ向けて小さく呟いた。
「今川義元は……必ず釣れる。
ええ餌が手に入った」
波が、月を砕いて笑った。
狂犬記(桃の日記)
天文二十三年 八月中旬ごろ/船の上(昼〜深夜)
題:蹴鞠殿、国を動かす
きょうの海、紫陽花色。
雨の名残が空に貼りついてて、波が青いのに紫っぽい。
戦の海なのに、きれいすぎて腹が立つ。きれいは油断を呼ぶから。
松平元康さま、ずっと緊張してる。
人質って、ほんまに“生き方”が鍛えられるんやな。
目線が細い。息が浅い。膳の位置を直してる。
ああいう人は、優しい。優しいから、自分を壊す。
横には景虎姉上。
越後の武神が、いま帳簿と農政やってるの、まだ信じられん。
でも姉上、数字の話してるときの目が、戦のときと同じ。
“勝ち筋を探す目”って、ああいう目なんやと思う。
そして、反対側に……氏真。
蹴鞠を抱えて、船旅に感動してる。
あの人、悪い人じゃない。
ただ、悪気がないから、いちばん厄介。
お市様と景虎姉上が、氏真の扱いを相談してた。
会話が怖い。
刃を抜かずに相手を動かす話ばっかり。
“文化を置けば金が動く”って言った瞬間、私、背筋がぞわってした。
戦国の強い人って、刀より先に“人の動き”を読んでる。
氏真を“蹴鞠殿”にするって決めたとき、私、心の中で言った。
――役職名が先。人は役を守る。
こわ。ほんまにこわ。
でも、正しい。
夕方、船飯の匂いがして、元康さまが少しだけ息をした。
お市様が薬包紙を渡してた。生姜と山椒。
“心は身体と繋がっておる”って言葉、私の胸にも刺さった。
お市様、乱暴に見えて、ほんまに医者なんやな。
深夜、氏真が月を見ながら「当主になりたくない」って言った。
そのとき景虎姉上が笑って、
“軽いものは心へ届く”って。
なんか、救われた気がした。
戦国で“軽さ”を肯定できるの、強い人だけや。
お市様が言った。
「笑いは国力じゃ」
たしかに。
米と塩と鉄と銀だけじゃ、人は生きられへん。
笑いがないと、心が先に死ぬ。
そして最後。
お市様が小さく言った。
「義元は必ず釣れる。ええ餌が手に入った」
……餌が、蹴鞠殿。
国が動く餌。
私、笑っていいのか分からんかったけど、ちょっと笑ってしまった。
明日から、もっと怖い。
でも、目が離せない。




