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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第120話 紫陽花奪還作戦その四 厄介な客 ――蹴鞠ひとつで、戦がずれる

西暦:1554年8月14日 朝

和暦:天文二十三年 八月中旬ごろ

場所:駿河・駿府(今川館城下/松平元康屋敷→駿河沖)

 朝から、空気が重い。夏の湿り気が畳に染み、息を吸うだけで胸がぬるくなる。

 駿府城下――今川館の外れにある松平元康の屋敷は、表向きは静かだった。静かすぎて、逆に不気味なほど。

 元康は、几帳面に膳の位置を直し、箸先を揃えて置いた。

 こういう“整い”は、心を落ち着かせるための術だと知っている。

 ……だが今日は、落ち着かせても意味がない。

 今日、帰る。

 密書を受け取った瞬間に、もう腹は決まっている。

 水野から。

 於大から。

 そして――狂犬お市様から。

 文に挟まれた話は、どれも三河の未来の匂いがした。

 知多の畑に植えた馬鈴薯ばれいしょが増えた。唐芋からいもも根づいた。鶏が増えた。卵が回る。

 戦の話より、飯の話が多い。だが、元康は分かっていた。

 飯が回る国は、兵が崩れない。兵が崩れない国は、いずれ勝つ。

 劉備玄徳に憧れた少年は、今も胸の奥にいる。

 ただ憧れるだけでは、国は救えない。

 だから、帰る。

 側近は酒井忠次ただ一人。

 二人は何日も「普通」を演じてきた。声の張り、歩き方、鍛錬の回数、読書の時間、庭の眺め方まで。

 どこを見られても“いつもの元康”。

 気配を消すのは忍びの仕事だが、武家の人質が気配を消すのは生き残りの仕事だ。

 ――ところが。

「おお、元康。朝からよい匂いだな」

 畳にどかりと座った男が、味噌汁をすすった。

 今川氏真。

 蹴鞠を抱えたまま。

 膳が三つ。

 元康の。忠次の。氏真の。

(……なぜ、いる)

 元康は笑顔を作る。忠次も笑顔を作る。

 作った笑顔の裏で、二人の胃だけがきりきり鳴った。

 氏真は悪人ではない。むしろ育ちがよく、風流を愛し、争いを好まない。

 だが戦国で一番厄介なのは、悪意のない“予定外”だ。

「父上がな、また“海道一の弓取り”だの何だの、戦ばかり言う」

 氏真は愚痴を始めた。

「余は連歌も蹴鞠も、もっと……こう、雅に生きたいのだが」

 元康は礼を尽くす。幼馴染の情がある。

 だが、礼を尽くせば尽くすほど、氏真は遠慮を忘れる。

 そのとき、外がざわついた。

 叫び声、桶の音、走る足音。焦げた匂いが、風に乗って屋敷へ滑り込んでくる。

 ――火だ。

 今川館の台所から。そこが最初の火元。

 城下の目と足をそちらに引きつけ、その隙に元康を海へ落とす。

 紫陽花奪還作戦、その四。合図は“火”。

 なのに。

「火事か? 夏は乾くからなぁ」

 氏真はのんびり言って、箸を止めない。

 元康の胃が痛む。

 忠次の背に、汗が一筋落ちた。

(たまらぬ、この緊張……)

(なぜ帰らぬ、氏真……)

 門の方で足音。

 屋敷の空気が、ぴんと張り替わる。

 襖が開いた。

「――おはようさん。元康どの」

 入ってきたのは狂犬お市様。

 その隣に、長尾景虎姉上。

 元康と忠次は、心の中で同時に白目になった。

(来た……!)

(終わった……!)

 だが、お市様と景虎姉上は、氏真の姿を見た瞬間、ほんの一瞬だけ目が点になっただけで、すぐ切り替えた。

 切り替えの速さが、戦の強さだと元康は知った。

「氏真どの。今川館が火事でございます」

 お市様は笑みを崩さず、言葉だけを刺す。

「当主のお子が、ここで朝餉と聞けば――噂は、火より速うございますぞ」

 景虎姉上が淡々と続ける。

「戻れば“当主として鎮火に奔走した”と立つ。戻らねば“蹴鞠にうつつを抜かした”と立つ。……どちらが今川に利か、氏真殿は分かるでしょう」

「うっ……」

 氏真は噂に弱い。風流人は、世評に弱い。

「そうだ、余が戻らねば!」

 氏真は勢いよく立った。蹴鞠を抱えたまま。

 ――ここまではよかった。

 だが氏真は、門へ向かいながら振り返って言う。

「元康、そなたも来い。余が守る。余がいなくては今川は回らぬ。ゆえに、余の傍におれ」

 忠次のこめかみが引きつった。

(厄介が極まった……)

 お市様と景虎姉上は目で会話した。

(連れて行くしかない)

(荷物ごと、海へ)

 お市様が、にこにこのまま命じる。

「撤収。……予定変更じゃ。氏真殿も“お連れする”」

「え、旅行気分かよ」

 忠次が小声で突っ込んだ。

 景虎姉上が、口元だけで笑った。

 慶次が肩を揺らし、伊賀の忍びが無言で頷く。こういう時、笑える者は強い。

 城下は火で騒然。

 だが混乱は、導けば道になる。

 潜入していた諜報員が人の流れを火へ寄せ、視線を火へ誘導し、通りを“空ける”。

 その裏を、お市様一行は切って走った。

 海へ。

 安宅船へ。

 九鬼水軍はすでに待機し、潮と風を読む顔になっている。

「おおお……船とは、こんなに大きいのか!」

 氏真が真っ先に感動した。

 蹴鞠を抱えたまま、甲板で海風に目を細める。

 人生初の船旅が、よりによって誘拐同然とは、本人だけが気づいていない。

 元康と忠次は、船縁に手を置いた瞬間、同時に思った。

(終わった……)

(いや、始まった……)

 そして、お市様は最後に“戦国の商い”をやった。

 ――看板で客の流れを変えるやつだ。

 諜報員に命じる。

「狂犬旗を、元康屋敷に立てよ。派手に。でっかく。目立つほどよい」

 さらに札を一本。

 お市様の直筆。

 『見参見参! 糞義元! 元康は連れてかえる!』

 城下にも一斉に張り紙、立て札。煽り散らし。

 火事の煙と、この札。

 今川の耳目は必ず義元へ向く。

 作戦は、ずれ始めた。

 だが狂犬は、ずれた歯車を“勝ち筋”に組み替える。

 厄介な客を、蹴鞠ごと抱えて。

狂犬記(桃の日記)

天文二十三年 八月中旬ごろ/駿府の朝

題:厄介な客、蹴鞠つき

 きょうは紫陽花を摘む日。

 松平元康さまを連れて帰る日。

 そのために、みんなが何日も“普通”を積み上げてきた。

 普通って、ほんまは一番むずかしい。

 とくに戦国の人質の普通は、刃物みたいに危ない。

 で、朝。

 屋敷に入ったら、膳が三つ並んでた。

 ――え、三つ?

 元康さまと忠次さまは、顔が動かへん。

 でも、胃だけが泣いてるのが分かった。

 そして、そこに座ってたのが、今川氏真。

 蹴鞠を抱えて。

 しかも泊まって。

 朝餉までいる。

 ……あの人、悪い人じゃない。たぶん。

 でも、悪気のない厄介って、最強や。

 火縄銃より怖いときがある。

 今川館から火が上がった。

 合図の火。

 城下が騒いでる。焦げた匂いが来る。

 なのに氏真は、味噌汁すすって愚痴。

 私、心の中で叫んだ。

「帰れ帰れ帰れ帰れ」って。

 言えないから余計に叫んだ。

 そこへお市様と景虎姉上が来た。

 二人が氏真を見た瞬間、目が点。

 でも一瞬。ほんまに一瞬。

 次の瞬間、戦の顔になった。

 お市様は笑ってるのに、言葉が刃。

 景虎姉上は淡々としてるのに、噂の矢を正確に刺す。

 軍略の天才って、こういうことなんやなって思った。

 氏真は噂に弱い。

 で、戻る……はずが。

「元康、そなたも来い」

 って言った。

 ……あかん。

 厄介の上塗り。

 でも、お市様は、そこで止まらへんかった。

 “予定変更”を、笑顔で決めた。

 連れていく。蹴鞠ごと。荷物ごと。

 海へ走った。

 船へ乗った。

 氏真は甲板で海風に感動してた。

 ……人生初の船旅がこれって、本人だけハッピー。

 こっちは胃が痛い。

 最後に、お市様がやったこと。

 旗を立てた。派手に。でっかく。

 札を打った。

 『見参見参! 糞義元! 元康は連れてかえる!』

 あれ、笑ったら負けやと思ったけど、ちょっと笑った。

 戦国の商いって、結局は“目立ったもん勝ち”や。

 尾張の市でもそう。値札ひとつで客の流れが変わる。

 戦も同じ。噂で流れを変える。

 元康さまと忠次さまが、船縁に手を置いた瞬間の顔。

 “終わった”と“始まった”が混じってた。

 作戦はずれた。

 でも、狂犬はずれたまま勝ち筋にする。

 ……さて。

 蹴鞠つきの厄介な客。

 どう料理するんやろ。

 次がこわい。

 でも、ちょっと楽しみでもある

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