第119話 紫陽花奪還作戦 その三 ――久能山の影から
西暦:1554年8月13日 夜〜8月14日 明け方
和暦:天文二十三年 七月末ごろ
駿河沖の夜は暗い。
けれど月が出ているから、海は墨を流したように鈍く光る。松明を点けた交易船が、沖を横切っていくのが見えた。
――この海は、戦の海ではない。商いの海だ。だからこそ、油断もある。
久能山沖。
狂犬お市様の安宅船は、帆を畳んで波を殺した。甲板にいる九鬼水軍は、声を出さない。櫓の軋みさえ、わざと遅らせるように動かしている。
「……静かすぎて、逆に腹が鳴るわ」
前田慶次が小声で言い、すぐ横の利家に肘をつつかれて、無言で謝った。
「鳴らすな。腹は敵に聞こえる」
「利家、それはさすがに腹の諜報力を買いすぎや」
そのやり取りに、さくらが小さく笑って、口元を押さえた。
笑ったのに、足音は一切立てない。伊賀の子らの“静けさ”は、笑いさえ裏切らない。
小早船が沖から滑り出す。
犬かき衆四百。軽武装、平服。鎧も兜も捨てた“何でもない人間”の姿で、砂浜へ向かう。
最前列に立つのは、駿河に潜り続けてきた諜報員たちと――
さくら、あやめ、せつなの三人だった。
「この浜、潮の匂いが濃い。干潟の筋、こっち」
さくらが囁き、あやめが頷く。
「草が寝てる。今夜、ここを誰か通った。……二刻以内」
せつなが鼻先で風を読み、薄く笑った。
「狼耳、便利やろ。……自慢してええ?」
「自慢してる時点で自慢です」
あやめのツッコミは小声でも鋭い。
砂浜は冷たかった。
上陸した犬かき衆は、濡れた足袋のまま走る。砂を蹴っても音を立てない歩き方は、数ヶ月かけて叩き込まれた“狂犬式”だ。
隊は、久能山の陰を縫う。
目的は松平元康の邸宅。今川館(駿府の館)から見れば城下の端、守りの薄い場所に置かれている。
見張りが少ないのではない。
「逃げられぬ」と思われているから、必要がないのだ。
小さな岬の影で、お市様が足を止めた。
月明かりが髪に落ちる。その横顔は、戦の顔ではない。診療所で人の目を見て、脈を取るときの顔だ。
「――姉上。今のうちに、もう一度だけ確認しておく」
お市様は、景虎姉上を振り返った。
長尾景虎。狂犬織の着物をまとい、髪を結い、女としてここに立っている。
月下の誓いの夜から、姉妹になった人。
「合図は、今川館の台所。火の手は“ひとつ”でよい。大きく燃やす必要はない」
景虎姉上が淡々と言った。
「……台所から?」
慶次がつい口を挟みかけ、利伴(利家)が目で止める。
景虎姉上は慶次を一瞥して、やさしく、しかし冷たく教えた。
「館で一番、人が集まるのが台所だ。火が出れば、兵も小者も皆そこへ走る。
火は戦より先に、人間の判断を奪う」
恐ろしいのは、声の温度が一定なことだった。
怒りでも憎しみでもない。
ただ、勝つために“最小で最大の混乱”を作る算段。
「火が上がった瞬間、館の門は内側からも外側からも混む。
救いに行く者、逃げる者、命令を待つ者――全部が絡まって、道が塞がる」
景虎姉上は指先で空に線を引いた。
「その“絡まり”の隙間を、私たちは通る」
お市様が頷く。
「民家に延焼させぬこと。死人を増やさぬこと。ここだけは譲れぬ」
「当然だ、妹よ」
景虎姉上は、月明かりの下で微笑んだ。
「火は合図。戦は目的ではない。目的は、紫陽花を取り戻すこと」
紫陽花――松平元康。
今川の手の中で咲かされている若い花。
隊列が再び動き出す。
諜報員が先導し、伊賀の三人が道を選び、犬かき衆が影のように続く。
朝食の刻には、邸宅の周囲配置が終わる予定だ。
そして、夜が最も薄くなる頃――。
遠く、駿府の方角で、ふっと赤いものが立った。
最初は小さい。台所の火だ。
だが火は“仕事”が早い。息を吸うように油を舐め、梁を舐め、赤が太くなる。
「……上がった」
さくらが呟いた。
次の瞬間、今川館の別の場所でも、ぽつり、ぽつりと火が点いた。
大火ではない。
けれど、同時多発に見えるように――“火の数”だけ増やしてある。
城下がざわめく音が、風に乗って届いた。
鐘。叫び。走る足。
門が、混む。道が、塞がる。判断が、遅れる。
「動く」
景虎姉上の声は短い。
お市様が手を上げた。
犬かき衆四百が、まるで一つの生き物みたいに、同じ呼吸で前へ進んだ。
元康の邸宅は、もうすぐだ。
配置が終わる。
あとは――朝が来る前に、花を折らずに摘むだけ。
紫陽花は、日陰で色を変える。
今夜、その色が変わる。
狂犬記(桃)
天文二十三年 七月末ごろ/久能山沖〜上陸の夜
月がある夜は、安心する。
闇が深いと、心の奥の怖さが勝手に育つ。
月があると、怖さが“形”になるから、私は数えられる。
駿河の海は、商いの匂いがする。
塩と、油と、濡れた木と、縄と、鉄。
戦より先に、生活がある匂い。
犬かき衆が四百もいるのに、音がしない。
最初、それが不気味だった。
でも今は、少し誇らしい。
鳴海の城下で、何度も“黙る訓練”をした成果だ。
慶次が腹のことを言って、利家に怒られていた。
あんな夜でも、あの二人はあの二人だ。
笑いそうになったけど、笑ったら負けだと思って、口を押さえた。
伊賀の子らは、笑っても足音が出ない。ずるい。
景虎姉上は、火の話をした。
台所から火を上げる、と。
私は、胸がちょっと痛くなった。
火は、怖い。
人が死ぬ。家がなくなる。泣く人が出る。
だけど姉上の言い方は、冷たいんじゃなくて、正確だった。
正確な刃物は、余計に傷を増やさない。
姉上は、そういう人だ。
お市様は、民家に燃え移らせない、と念を押した。
その瞬間だけ、私は息がしやすくなった。
お市様は戦が強いのに、戦が好きじゃない。
人を生かすために強い。
火が上がった。
遠くの赤が、急に太くなった。
鐘が鳴った。叫び声がした。
私は祈った。
――誰も死にませんように。
――元康様が、折れずに摘まれますように。
――紫陽花が、紫陽花のまま戻れますように。
夜が薄くなる。
この薄さが、一番怖い。
でも同時に、一番美しい。
私は、今日のことを忘れない。
月と海と、静かな足音。
それから、火の赤。
火は合図。
目的は、救うこと。
そう信じている。




