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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第118話 紫陽花奪還作戦 その二 ――今川義元

西暦:1554年8月12日 昼

和暦:天文二十三年 七月下旬ごろ

場所:駿河国・清水別邸

 駿河守護・今川義元。

 三河・遠江・駿河――三か国を支配する太守にして、「海道一の弓取り」と称される男。

 だが彼の強さは、槍の切っ先よりも、帳簿と礼法と“恐怖”にあった。

 軍功で名を上げるタイプではない。圧力と粛清で敵を削り、同盟と格式で味方を縛り、静かに勝ち残ってきた支配者である。

 夏が深くなると、戦だけが仕事ではなくなる。

 寺の法事は重なり、京から下ってきた公家や僧の“面倒”も増える。

 今川家は戦乱を避けて流れ着いた貴族たちを「保護」している――表向きは慈悲、裏では権威の飾りであり、情報の鎖でもある。

 そして今日から三日間。

 清水別邸で、連歌会が開かれる。

 潮の匂いが混じる風が、簾を揺らす。

 庭の砂は水を打たれ、白く締まっている。

 座敷には香が焚かれ、墨の匂いと酒の匂いが、同じ空気に溶けた。

「春以来よ。ようやく、心の静まる日が来たわ」

 義元はそう言って、杯を上げた。

 縁に金の細工がある、京好みの器。

 それを見て、公家が「さすが今川殿」と囁く。義元は満足げに目を細めた。

 ――戦で勝つより、これが好きなのだ。

 誰もが頭を下げ、言葉を選び、空気を読む。

 その場にいるだけで、人が従う。

 そこへ、家臣が控えめに膝を寄せる。

「申し上げます。駿府城下にて、尾張の噂が……」

「またか。どうせ伊勢へ出たという話であろう」

 義元は扇子で口元を隠したまま、軽く笑った。

「狂犬お市――あの女は派手だ。

 派手な者は、必ずどこかで足を滑らせる。焦るな」

 家臣は言葉を濁した。

 噂は確かに多い。だが、妙なのだ。

 ・伊勢へ向かった

 ・いや、伊勢ではない

 ・九鬼が動いた

 ・だが港は静かだ

 ・尾張が兵を集めた

 ・しかし動く気配が見えぬ

 断片だけが増え、全体像が見えない。

 “見えない”ことが怖いのに、義元は「見えないなら問題ない」と判断しがちだった。

「雪斎は?」

 義元が問う。

 大原雪斎――義元の軍師であり、今川の胃袋であり、目である。

「雪斎様は本日、寺で法事。明日以降にこちらへ――」

「ふむ。ならば良い。連歌は、雪斎抜きでも回る」

 義元はそう言い切り、杯を置いた。

 ここでも、彼は気づかない。

 雪斎が不在なこの三日間が、最も危ういということに。

 庭を横切る風が、ふいに冷たくなった。

 義元はそれを「夕立の前触れ」と思った。

 ――違う。

 それは、潮ではない。

 “流言”の冷えだ。

 正月以来。

 今川領には、狂犬お市の諜報網が張り巡らされていた。

 行商人。寺の小僧。荷役の人足。湯屋の女。

 誰が諜報か、誰も分からない。

 分からぬから、疑う。疑うから、動けない。

 義元は、顔を上げて公家たちに笑った。

「では、ひとつ。

 今宵の発句は――夏の海にするか、蝉にするか」

 公家たちは喜んで筆を取る。

 その筆の音が、静かな座敷に響く。

 ――その音の下で、駿河の海はすでに揺れていた。

 久能山沖。

 安宅丸の甲板で、狂犬お市様が潮風を受けている。

 隣に立つのは、義理の姉――長尾景虎。

「義元は、文化と体面で勝った男じゃ。

 だからこそ、体面が折れる状況を作れば、戦わずして崩れる」

 お市様が言うと、景虎は目を伏せ、すぐに顔を上げた。

「連歌会に集まるのは、京の避難貴族。僧。歌人。

 ――口が軽い者も多い。情報は、勝手に広がる」

「うむ。

 流言飛語とは、刀より安いのに、よく斬れる」

 お市様は笑い、そして真顔で続けた。

「紫陽花(松平元康)奪還は、ただの救出ではない。

 義元の支配が“脆い”と、三河に見せる儀式じゃ」

 景虎の目が、青白く光る。

 戦のための光ではない。

 未来の国を作るための、軍略の火だ。

「……では、次は“義元が動けぬ理由”を増やす。

 恐れではなく、面子で縛る」

「そうじゃ、姉上。

 面子で縛って、潮で流す」

 安宅丸が、ゆっくりと波を割る。

 この昼、清水別邸の座敷では、連歌の発句が決まった。

 義元はまだ知らない。

 その一句が、己の首を締める縄に変わっていくことを。

狂犬記(桃)

天文二十三年 七月下旬 昼 清水の噂、潮の匂い

 今日は、清水の方から流れてくる噂が、やけに冷たい。

 夏の噂は本当は熱いものなのに、今川の噂だけは、井戸水みたいに冷えている。

 清水別邸で、連歌会が始まったと聞いた。

 貴族や僧侶が集まって、香を焚いて、墨を磨いて、酒を飲んで。

 戦を避けて逃げてきた人たちが、戦をしている国の守護に守られて、安心して歌を詠む。

 ――それは綺麗で、少しだけ、怖い。

 怖いのは、守護が文化を好きだからじゃない。

 文化を“道具”にしているからだ。

 「保護」って言葉は、甘い。

 でも、甘いものほど、歯にくっつく。

 離れようとすると、痛い。

 駿府の人は、守護のことを褒めるとき、声が小さいらしい。

 声が小さい褒め言葉って、褒めてないのと同じだと思う。

 でも、口に出せないなら、心の中で言っているのかもしれない。

 ――怖い、と。

 お市様は、潮の匂いのする安宅丸に乗っている。

 私も同じ船にいる気がする。胸が波みたいに上下する。

 景虎姉上は、最近、笑う回数が増えた。

 でも笑うと、すぐに真面目な顔に戻る。

 あの戻り方が、戦の天才の戻り方だ。

 心が柔らかくなったからこそ、刃が研がれる。そんな感じ。

 お市様は言った。

 「流言飛語とは刀より安いのに、よく斬れる」と。

 私は、少しだけ背筋が寒くなった。

 言葉で人を斬るのは簡単だ。

 でも、お市様は“斬るため”じゃなく、“助けるため”に言葉を使う。

 そこが一番、恐ろしくて、一番、優しい。

 紫陽花(松平元康)奪還は、救出じゃなく「儀式」だそうだ。

 三河に、“今川の支配は完璧ではない”と見せる儀式。

 儀式って、祈りの形をしているのに、実際は人の心を動かす仕掛けだ。

 今川が好きな“文化”と同じだな、と私は思った。

 文化で縛る今川。

 情報でほどく狂犬。

 ――夏の海は、きれいだ。

 でも、きれいな海ほど、底が見えない。

 明日、清水の座敷では、筆の音がする。

 同じ時、海の上では、船の軋む音がする。

 どちらの音が先に、誰の運命を決めるのか。

 私は、潮の匂いを深く吸って、袖口を握った。

 紫陽花は、日陰で色を変える花。

 だからこそ、今はまだ、誰にも見えないところで――

 色が変わっている。

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