第117話 紫陽花奪還作戦発動 ――法螺貝の鳴らぬ出陣
西暦:1554年8月12日 早朝
和暦:天文二十三年 七月下旬ごろ 早暁
場所:尾張・鳴海/熱田沖~駿河・久能山沖
夜が、まだ名残を引きずっていた。
鳴海城下の空気は湿り、潮の匂いと夏草の匂いが混じっている。蝉は鳴ききれず、代わりに遠くで犬が一度だけ吠えた。
――だが。
法螺貝は、鳴らなかった。
城下の誰もが、それに違和感を覚える。
いつもの狂犬お市様なら、出陣となれば、民衆にまで聞こえるほどの大音声で号令をかける。
太鼓、旗、行列、炊き出し。城下の熱で、戦が始まったことを“見せる”。
けれど今朝は、真逆だ。
「……静かすぎて、気味が悪いな」
安宅船の甲板で、前田慶次が欠伸を噛み殺した。松風は小早船の方に預けてある。今朝は騎馬の出番ではない。
横で、景虎が水面を見つめていた。
越後の海とは色が違う。鳴海の潮は黒く、そして温い。
景虎は、狂犬織の着物の上に、軽い胴当てだけを着けていた。帯の結び目がきりりと整っている。すでに“尼様”の柔らかさは抜け、姫武者の眼が戻っている。
「慶次。静かであるほど、刃は深く入る」
「はいはい、姉上は今日も怖いこと言う」
「怖いのはお主の寝起きの顔じゃ」
「ひどいな!? 俺、天下の美男子だぞ!」
「天下の美男子は、欠伸で涙を流さぬ」
「泣いてねぇ、あくびだ!」
そのやりとりを聞いて、犬かき衆が小さく笑った。
甲板の端に並ぶ四百人――軽装の者ばかりだ。鎧は着けない。槍も短い。背には水に強い革袋、腰には早合、そして小太刀。
武装は軽いが、眼だけは重い。全員が“泳いで殺す”ことを知っている顔だった。
「笑うてよい。怖さは、笑いで薄まる」
甲板中央から、澄んだ声が落ちる。
狂犬お市様だった。
白い羽織をさらりと肩に掛け、髪は戦支度の結い方。
表情は穏やかだが、瞳の奥は笑っていない。
戦の医師であり、心の医者であり、商いの鬼であり――そして、狂犬。
「ただし、口は閉じよ。今朝は“鳴らさぬ戦”じゃ」
お市様の背後には、さくら・あやめ・せつな。
いつも通り軽口を叩きそうな三人が、今朝に限って、口数が少ない。
気配だけが鋭い。忍びの“仕事の顔”だ。
そして、船団の先頭には九鬼嘉隆。
安宅船十艘、小早船を曳航し、さらに堺で得た南蛮式の中古船が控えている――が、今回は見せびらかさない。
南蛮船は帆を落とし、存在を消すように並走していた。
出陣の理由は、表向きには伊勢攻略。
城下にも、諸国にも、そう流してある。
――だからこそ。
今川の密偵たちは、城下に潜ったまま、自由に歩いていた。
「……あの者ら、今日も城下で酒を飲んでおります」
あやめが小声で報告する。
「捕まえる?」
さくらがにこっと笑う。
“犬並みの鼻”が、潮の匂いの中から敵の脂汗だけを嗅ぎ分けている。
お市様は、あっさり首を振った。
「よい。岡部も同心も、泳がせよ」
「え、ほんまに?」
せつなが片眉を上げる。
「捕まえたら早いのに。うち、今なら首根っこ掴めますけど」
「掴まぬ。使う」
「……使う?」
「敵の目と耳は、こちらの口にもなる。流言飛語は、敵の舌で流すのが一番美しい」
景虎が、そこで静かに頷いた。
その頷きは、軍師の理解だった。
「なるほど。表向きの伊勢出兵を“信じさせる”には、敵に見せるのが最短だ」
「姉上、さすがじゃろ?」
お市様がにこりと笑う。
景虎は一瞬、ほんの少しだけ気が抜けた顔をして、すぐに戻した。
――紫陽花。
それは暗号名。
松平元康を指す。
今川の檻に入れられ、しかし折れていない、三河の若い主君。
お市様は、甲板の端に立ち、海を見た。
遠く、東の空が薄く明るい。
久能山沖。駿河の海だ。
「作戦は一つ。
釣って、割って、奪って、戻る。
長居はせぬ。長居すれば、戦になる。
今日は“戦にせぬための戦”じゃ」
犬かき衆の息が、一斉に整う。
声は出さない。だが身体が揃う。
そこで、九鬼嘉隆が咳払いをした。
「お市様。潮回りは良い。
夜明けの上げ潮で久能沖へ寄せ、午の刻前には引けます」
「うむ。海は嘘をつかぬ。人より素直じゃ」
「人を素直にするのが、お市様の役目でございましょうに」
「わらわは医者じゃ。素直にならぬ者の腹を、薬で動かすだけじゃ」
「腹を……」
慶次が吹き出した。
「姉上、これ笑っていいやつ?」
「よい。だが海に落ちるな」
「落ちません!」
笑いが、ほんの少しだけ船に戻る。
それは、恐怖を薄めるための笑いだ。
お市様はそれを計算で許した。
甲板の隅では、犬神阿国が、目を細めて海を見ていた。
元・飛び加藤。今は、お市様から名をもらった女。
(……表に出ろ、って言われたけどさ)
(いきなり“駿河久能山沖”は、表が過ぎない?)
阿国が小さく首をすくめると、みぞれが耳をぴくりと動かした。
狼並みの聴覚が、阿国の独り言を拾う。
「阿国。心の声がでかい」
「出てない! 今のは脳内だよ!」
「脳内がでかい」
「そこまで言う!?」
こゆきがふわっと笑い、つららが即座に突っ込む。
「はいはい、阿国さん。
“表に出る”ってのは、声量の話ちゃうで」
「わかってるよ!」
「わかってない顔しとる」
「つらら、視力で心まで見るな!」
忍びの姉たちの漫才に、せつなが肩を揺らした。
さくらが「姉上たち、ほんま仲いいな」と呟く。
景虎は、その“家族の空気”を横目で見て、少しだけ胸の奥が温くなるのを感じた。
越後には、こういう余白がない。
戦と統制だけで、呼吸が詰まる。
だから私は――帰りたくないのだ、と。
景虎は、ふっと息を吐く。
その呼吸の変化を、お市様は見逃さない。
「姉上。苦しいか?」
「……いや。今は、温い」
「なら良い。温い日は、刀も曲がりやすい。心も曲がる。曲がるなら、折れる前に曲げてしまえ」
「相変わらず、医者の言葉は怖い」
「怖いのは、痛みを放置することじゃ」
お市様は、景虎の肩に、軽く指を置いた。
触れるだけ。押さえつけない。
それが“心の医者”の手つきだった。
そして、お市様は視線を前に戻す。
「――小早船、出す」
九鬼が合図を出す。
曳航されていた小早船が、静かに海へ滑り出す。
犬かき衆が、荷と武具を確認し、革袋の口を結び直す。
法螺貝は、最後まで鳴らなかった。
太鼓も、鬨の声もない。
ただ、船が進む。
潮が押す。
空が白む。
そして、鳴海城下に潜る今川の密偵たちは――
その静けさこそを“平穏”と誤認する。
お市様は、そこまで計算していた。
「紫陽花は、雨に強い」
お市様が独り言のように言う。
「だが、根が腐れば色は戻らぬ。
だから、根を奪う」
景虎が、ゆっくり頷く。
「奪うだけでは終わらぬ。
奪った後に“生かす”策が要る。
元康は英雄に憧れる。
ならば、英雄の席を用意してやるのが早い」
慶次が目を丸くした。
「姉上、そういうとこだけ怖いって!」
「怖いのは、英雄を夢見て寝ている者じゃ。
起こしてやるのが、軍師の役目だ」
お市様が、にこりと笑う。
その笑顔は、優しいのに、戦より鋭い。
「さあ。
紫陽花を咲かせに行くぞ」
船団は、夜明けの海へ滑り込んだ。
久能山沖へ。
“奪還”のために。
その頃、鳴海では。
留守居の者たちが、あえて大声で伊勢出兵の準備を語り、噂を撒いていた。
敵の耳に乗せるために。
敵の口で、敵を縛るために。
――狂犬の戦は、刃より先に、言葉が走る。
紫陽花奪還作戦。
発動。
『狂犬記』作者・桃の日記
天文二十三年 七月下旬ごろ 夜明け前~早朝
法螺貝を鳴らさない出陣、めちゃくちゃ好き。
“派手に勝つ”じゃなくて、“戦にせずに勝つ”方向へ舵を切ってるのが、今のお市様っぽい。
今川の密偵を捕まえないのも良い。
捕まえるのは簡単。けど、泳がせて、嘘を食わせて、敵の舌で噂を流させる。
これ、忍びと商いの合わせ技で、狂犬堂のやり口そのまま。
景虎姉上が、少しずつ“温い空気”を覚えていくのも好き。
越後にはない余白。
それがあるから、景虎は人として戻れる。




