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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第116話 紫陽花が咲くころに酒井忠次 ――忠義とは、読むか、隠すか

西暦:1554年7月8日 昼

和暦:天文二十三年 六月下旬ごろ 昼

 梅雨の雲が、ようやく切れた。

 昨夜まで降り続いた雨は嘘のように引き、三河の空は薄く青い。湿った風の中に、紫陽花の色がくっきりと浮かぶ。

 酒井忠次は、縁側に腰を下ろし、膝の上に文箱を置いていた。

 中には、六通の密書。

 ――水野から二通。

 ――おだいから二通。

 ――そして、狂犬お市様から二通。

 宛名は分かれている。

 酒井忠次あて、松平元康あて。

 それぞれ三通ずつ。

 だが忠次は、まだ一通も元康に渡していない。

「……重いな」

 口に出して、忠次は苦笑した。

 刀より重い紙切れがあるとは、若い頃は思いもしなかった。

 まず読んだのは、自分宛のものだった。

 ――それは、忠次が“読むべき”文だ。

 狂犬お市様の密書は、簡潔だった。

『八月、動く。

 鳴海より軍を率い、今川領に強襲をかける。

 標的は一つではない。

 釣り、割り、叩く。

 紫陽花は色を変える準備に入った。

 忠次殿、殿を守れ。

 守りながら、選ばせよ』

 忠次は、読み終えた瞬間、思わず腰が抜けた。

 その場に座り込んだまま、しばらく動けなかった。

「……八月に、強襲……」

 無茶だ。

 だが――狂犬お市様なら、やりかねない。

 いや、やる。

 鳴海での噂。堺での動き。

 商いと軍事を同時に走らせる女。

 兵だけでなく、帳簿と人心で国を削る狂犬。

「正気じゃない……が、理は通っている」

 忠次は深く息を吸い、吐いた。

 次に、水野からの文を開く。

『忠次殿。

 元康は今、動けぬ。だが折れぬ。

 狂犬様の策は、殿に“選ぶ余地”を残している。

 無理に引きずるな。

 だが、知らせよ。

 知らねば、選べぬ』

 最後に、おだいの文。

『忠次。

 あの子は、考えすぎる。

 守るばかりでは、英雄にはなれぬ。

 腹を満たし、心を満たし、

 それでも迷うなら――

 迷わせてやりなさい。

 それが、母の願いです』

 忠次は、文を閉じた。

 残るは、元康宛の三通。

 ――見せるか。

 ――隠すか。

 忠義とは何か。

 主を守ることか。

 それとも、主を戦に立たせることか。

「……難儀な役目を、仰せつかったものだ」

 忠次は立ち上がり、文箱を抱えた。

 廊下を進み、隣の部屋の障子の前で足を止める。

 中から、紙をめくる音。

 元康は、今日も書を読んでいる。

 ――紫陽花は、すでに色を変え始めている。

 殿だけが、それをまだ知らない。

 忠次は、障子に手をかけた。

「殿。

 お話が、ございます」

 声は、いつもより低かった。

 だが、迷いはない。

 読むべき時が来た。

 隠す忠義は、ここまでだ。

 紫陽花が咲くころ。

 酒井忠次は、主の運命を一歩、前に押し出す。

『狂犬記』作者・桃の日記(抜粋)

天文二十三年 六月下旬ごろ 昼

 この人は「常識人」に見えて、一番度胸がある。

 忠義とは、従うことではなく、決断を背負うこと。

「守れ。守りながら、選ばせよ」

 紫陽花は、完全に色を変える。

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