第115話 紫陽花が咲くころに松平元康 ――梅雨長し、心も長し
西暦:1554年7月7日 夜
和暦:天文二十三年 六月中旬ごろ 夜(七夕)
――三河・元康の寓居(仮住まい)/座敷
雨が、やまない。
梅雨はいつも長いが、今年は執念深い。夏の匂いが近いのに、肌に張りつく冷えが抜けず、灯明の火さえ湿って見えた。
座敷の片隅、元康は膝を抱えるように座り、巻物を広げたまま頁をめくっている。
読むのは三国志、漢籍、そして――吾妻鏡。武家の興亡が、墨の跡から滲み出る。
「……頼朝公……いや、劉玄徳……」
呟いた声が、雨音に吸われる。
元康の家には、側近の酒井忠次がいるだけ。
今川の監視は、ここにはいない。いる必要がないのだ。逃げたところで三河岡崎には今川の代官が入っている。城も兵も、元康にはない。
自由に見えて、行き先の無い鳥。檻の外に檻がある。
――本来なら、日課の鍛錬。
――趣味の漢方薬づくり(といっても薬草を煎じ、配合を試す程度だが)。
しかし今日は、何ひとつ手につかなかった。
畳の上に、未開封の文が二通。
水野とおだい――血の繋がる家からの便りだ。
忠次が、火鉢の脇で茶をすする。湯気が静かに立つ。
「殿、今宵は七夕にございます。願い事でも書かれては」
「願いなど……」
「ならば“晴れてくれ”で。梅雨明けは全員の願いでございます」
「……それは、願いというより切実だ」
忠次は笑い、顎で文を示した。
「お手紙、開けませぬか。おだい様の文は、だいたい――」
「だいたい?」
「だいたい、食い物の話でございます」
「……」
「殿のためを思って、食わせたいのでしょう。親心というやつです」
「親心で腹は満ちるか」
「腹が満ちれば、心も少しは満ちます」
元康は渋い顔のまま、封を切った。紙の匂いが湿気に負けずに立つ。
『元康へ。こちら知多は、狂犬様の統治にて田畑が息を吹き返しました。
水野とおだいで相談し、畝の間隔を広く取り、芋を試しております。馬鈴薯と唐芋です。
鶏もよく増え、卵が出ます。卵が出れば、子が笑います。子が笑えば、田も笑います――』
元康の眉間が、じわりと寄る。
「……田が笑うとは」
忠次が即答する。
「笑う田は強い田でございます」
「知らぬ言い回しだ。どこの学問だ」
「知多学でございます」
「学問と呼ぶな」
もう一通。水野から。
『元康殿。
狂犬様は、まず帳面を整え、次に人を整え、最後に畑を整える――と申された。
“食が先、刀は後”と。
常滑の港より物が入り、津島を経て米も動く。熱田では噂が動く。
殿が好きな漢方も、薬草を集めやすくなった。
食べよ。生きよ。今はそれが道だ――』
元康は、文を握りしめた。
食べよ。生きよ。
それは正しい。だが、正しさは時に、惨めさを連れてくる。
「……皆、前へ進んでいる」
元康の声は小さかった。
「私は、書を読んで、夢を見ているだけだ」
忠次が湯呑を置く。
「殿。夢を見る者がいない国は、先に行けませぬ」
「慰めか」
「現実です。殿が夢を持つから、家臣が腹を括れます」
「だが私は、城も兵もない」
「兵なら、殿の中におります。まだ、錆びていない」
「……」
「ただし錆びは、放っておけば増えます。ですので」
忠次は火鉢から小鍋を持ち上げた。
「薬湯。殿の趣味でございます。今日は“やらぬ”と言いましたが、私は“やらせる”にございます」
「忠次」
「殿の漢方は、私の命綱でもあります。殿が落ち込むと、薬が薄くなる」
「薬と気分が連動しているのか」
「はい。殿の気分が沈むと、薬が苦くなる。苦いのは嫌でございます」
「……おまえは、どこまでも現実だな」
「現実は腹に来ます。腹が動けば、人は動きます」
元康は、思わず息を吐いて笑ってしまった。
雨の夜に、小さな笑いはよく響いた。
その瞬間だった。
外の庭先で、雨を踏む音がひとつ。
忍び足――ではない。隠す気のない足音。だが、軽い。
忠次の目が鋭くなる。元康も背を正した。
障子の向こう、影が一つ。
「……誰だ」
元康が問うと、女の声が返る。
「旅の者にございます。道を問うてよろしいか」
雨に濡れた声なのに、不思議と香りが混じった。
花の香とも違う。
――甘く、鋭い。記憶を掴む匂い。
忠次が、元康の耳元で囁く。
「殿。……おだい様の文に出てきた、“狂犬様”の噂。熱田で噂が動く、と」
「……」
「噂は、足が速い。雨でも濡れませぬ」
元康は立ち上がり、障子へ近づいた。
紫陽花の季節。
七夕の夜。
雨はまだ、やまない。だが――胸の奥の湿った冷えが、少しだけ動いた。
英雄に憧れるだけの息子へ。
食べよ、生きよと叱る母へ。
そして、名も顔も知らぬ“狂犬様”へ。
元康は、障子に手をかけた。
――紫陽花が咲くころ、運命は静かに色を変える。
『狂犬記』作者・桃の日記(抜粋)
天文二十三年 六月中旬ごろ(新暦七月七日) 夜
元康は、強いのに、今は動けない。




