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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第114話 01号・紫陽花(松平元康)奪還作戦 ――景虎の作戦立案/02号・義元釣り出しの答え

西暦:1554年6月5日 朝

和暦:天文二十三年 五月下旬ごろ 朝

――駿河・久能山沖/安宅丸(鳴海への帰路)

 梅雨の海は、空の顔色ひとつで牙を剥く。

 だが今朝の久能山沖は、波が低く、潮が素直だった。安宅丸のふなばたを叩く水音は、まるで鼓の小刻みな拍子みたいに一定で、船足もよい。

 甲板の隅、風除けの幕の内側。

 お市様と景虎姉上が小机を挟んで向き合う。机の上には、海図、算木、木札、そして“帳面が二冊”。

 一冊は、商い。

 香水・お市の予約数、入金、原料、配賦、回収――数字の流れ。

 もう一冊は、いくさ

 火縄銃、早合、背負袋、兵の失敗癖――人の流れ。

 景虎姉上は、その二つを同じ速さでめくる。

 越後では“軍略だけ”が仕事だった姉上が、鳴海では“国の仕組み”そのものを吸い込んでいる。

「姉上、寝た顔を見ておらぬ」

 お市様が湯気の立つ椀を差し出した。生姜の香る薬膳粥。医者の朝は、まず胃から守る。

「寝た」

「嘘じゃ」

「目を閉じて考えていた」

「それを寝たと言うなら、九鬼殿は舵を“寝ながら”握っておることになる」

「……それは困る」

 姉上が小さく笑う。

 その笑いに、さくらがこそっと小声で言った。

「……景虎姉上、最近、笑う回数、増えてますよね」

あやめが即ツッコミ。

「数えたんかい」

せつながにやっとする。

「数えるのは諜報の基本やろ。知らんけど」

 慶次は、松風の手綱を指で弄びながら欠伸を噛み殺し、しかし耳は完全に軍議へ向いていた。

 今、詰めているのは――01号・紫陽花奪還作戦。

 “紫陽花”は作戦名。

 正体は、松平元康。

 今川の手の中にある若い芽を、折られぬうちに奪い返す。

 奪還は勝利ではない。次の勝利のための“下地”だ。

 お市様が机上の木札を置く。札には大きく墨で、こう書かれていた。

 紫陽花(元康)

 奪う

 戻す

 生かす

「姉上。01号は“奪う”だけでは足りぬ。“生かす”までが作戦じゃ」

「心得ている」

「なら、姉上の言葉で詰めてくれ。わらわは、手足になる」

 景虎姉上は算木を置いた。カチ、と乾いた音がして、空気が締まる。

 歴史上、軍略が異様な天才。諸葛亮ですら赤子扱い――お市様の盛り方は今日も強いが、姉上の頭はそれに負けない。

「奪還は、戦場で勝つことではない」

 姉上は、まず“定義”から入った。

「戻り、隠し、息を整えさせるまでが奪還だ。最も人が死ぬのは帰り道。だから作戦は帰り道から作る」

「ほう。帰り道から」

「敵は追う。追撃は“勢い”で伸びる。勢いを折ればよい」

 姉上は木札を四枚、順に並べた。

 一、耳(噂)

 二、目(見張り)

 三、足(退路)

四、腹(補給)

「耳を先に潰す」

「耳?」

「噂だ。奪還の前に、“紫陽花は価値がない”という噂を流す。値が下がれば、守りは薄くなる。守りが薄くなれば、奪いやすい」

 お市様が口角を上げる。

「姉上、商いのことわりを戦に持ち込んだな」

「鳴海で学んだ。値を下げれば価値が死ぬ――逆もまた真だ」

「うむ。わらわがいつも言っておるやつじゃ」

「……うるさい」

「褒めておる」

 さくらが小声で。

「姉妹漫才、始まりました」

あやめが即。

「始まってへん」

せつなが追撃。

「始まってないと言いながら、もう始まってるやつや」

 姉上は続ける。

「二、目。見張りは殺すな。死体は騒ぎを呼ぶ。眠らせ、縛り、機能を止める。交代の隙、酒の隙、雨の隙――隙は必ずある」

「三、足。退路は“二本”作る。一本は本物、一本は囮。追撃の指揮官に“伏兵がいるかもしれぬ”と疑わせれば、足が止まる」

「四、腹。戻ったあとが肝心。元康に湯と粥を与え、傷を隠し、心を落ち着かせる。奪還直後に折れる者は多い。医者がいるのは強い」

 お市様が頷いた。

医者の顔で、そして家の主の顔で。

「姉上、良い。……では02号。義元の釣り出しは?」

 ここが本題の“答え”だ。

 奪還は01号。だが、それは義元を釣るための餌付けでもある。

 景虎姉上は、海図の上で指を滑らせた。

 久能山、駿府、街道、港――線が繋がる。

「義元は、戦に出てくる前に、銭の匂いに出てくる」

「銭の匂い?」

「今川は大国だ。だが大国ほど、維持費がかかる。宿場、運上、兵糧、馬。数字が崩れると、威信を守るために“勝てる戦”を欲しがる」

 お市様が楽しそうに笑った。

「姉上、帳簿の言葉になってきたの」

「帳簿は嘘をつかぬ。人は嘘をつく。だから帳簿で人を縛る」

 姉上は、02号を“釣り”に喩えて、簡潔にまとめる。

「一、餌は“勝てそう”でなければならぬ」

「二、糸は“噂”だ。噂を引けば魚が寄る」

「三、針は“利”だ。義元は利のある場所へ必ず出る」

「四、網は“退路”だ。出てきたら戻れぬ形にする」

 慶次が口を挟む。

「魚っていうか、でっかい猪やろ」

「猪でも同じだ。餌に釣られ、罠に落ちる」

「姉上、怖い顔で言わんといて。海が冷える」

「海は冷えてよい。人が熱くなると失敗する」

 そして景虎姉上は、最後にお市様へ視線を戻した。

 青白い炎が、瞳の奥に静かに灯る。

「お市。私は越後で、追う側だった。追うほど心が荒れ、女でなくなった」

「姉上」

「だが今は、追わぬために整える道があると知った。奪い、戻し、生かす。腹を満たし、銭を回し、戦を減らす」

 お市様は、笑って頷いた。

 優しいのに、揺るがない笑いだ。

「なら、姉上は鳴海にいてよい。いつまででも。戻りたくなったら、その時に戻ればよい」

「……」

「その代わり、今は軍師として、わらわの横にいてくれ。01号を仕上げ、02号を詰める」

「承知した」

 安宅丸は帆を孕み、鳴海へ向けて進む。

 紫陽花の色はまだ見えない。

 だが、奪還はもう――姉妹の机の上で始まっていた。

『狂犬記』作者・桃の日記(抜粋)

天文二十三年 五月下旬ごろ(新暦六月五日) 安宅丸にて

 景虎姉上は“戦の天才”ではなく、“国の天才”だと思う。

 作戦の言葉が、人の癖と数字に繋がっている。

 見張りを殺すな、噂を先に潰せ、帰り道から作れ――全部、死なせないための知恵だ。

 お市様は、医者の顔で粥を差し出し、主の顔で姉上を軍師に据える。

 優しさが甘さにならないのが怖いくらい強い。

 姉妹の会話は時々漫才だけど、芯は一本通っている。

 01号は“奪って戻して生かす”。

 02号は“噂で糸を引き、利で針を刺し、退路で網を張る”。

 戦は戦場だけで決まらない。

 世間と帳簿が、戦を始める前に勝ち筋を作る。

 私は、海の音を聞きながら思った。

 紫陽花が奪還できたら、次は義元が動く。

 その時、姉妹の机の上の札が、現実になる。

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