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『狂犬お市様』 〜転生八回目、戦国を生活で支配した姫〜   作者: イサクララツカ


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第113話 お市様の軍事訓練 景虎の天才的軍事才能

――尾張・鳴海城/朝

西暦:1554年5月28日 朝

和暦:天文二十三年 卯月下旬(新暦五月二十八日) 朝

 堺の海風をまだ髪に残したまま、鳴海城の朝は――うるさい。

 庭先の練兵場。

 火縄銃の火蓋が、乾いた音で連なっていく。

 号令、足並み、火薬の匂い。

 そして――隊列を乱して転ぶ兵。

「……おい! そこでこけるな! 火縄が暴れるだろうが!」

 利家の怒号が、空気を叩いた。

 慶次はと言えば、松風の横で欠伸をしている。

 ちゃんと立っているだけ、まだマシという顔だ。

「利家殿、怒りすぎでは?」

 尼姿の景虎が、少し離れた場所から静かに見ていた。

 その目は柔らかいのに、見ている“中身”は冷たいほどに正確だ。

「怒らんと、覚えん」

「覚えぬのではなく、覚えさせ方が違う」

「……は?」

 利家が振り返る。

 景虎は、指を三本立てた。

「一、銃を持つ手が重い。肩が落ちる。だから銃口がぶれる」

「二、火縄の管理が粗い。焦って火皿を開けるから、火薬が散る」

「三、足が揃っていない。“撃つ前の歩き”で疲れている」

 利家が言葉を失う。

 失敗の原因を、起きた順に、起きた通りに並べた。

 それだけで、現場の混乱が“絵”になる。

「対策は?」と利家が絞ると、景虎は淡々と続けた。

「銃は、最初は軽い木銃でよい。肩と肘の角度だけを覚えさせる」

「火縄は、火皿を開ける者、火縄を守る者、装填の袋を持つ者――役を固定する」

「歩きは“撃つ前だけ”短く。前進射撃は、十歩・五歩・三歩で区切れ。合図も変える」

 利家が、唸った。

「……それ、今日からやる」

 慶次が笑う。

「尼様、容赦ないな。利家が久々に黙っとる」

「容赦している。死なせぬためだ」

「言い方ぁ!」

 そのやり取りを、縁側から眺めていたお市が、くすりと笑った。

 笑いながらも、その目は現場と景虎を同時に見ている。

 堺で買い付けた中古船――カラベル、キャラック、そして“故障したガレオン”。

 あれは、ただの買い物ではない。

 海の道が開けば、銭が回る。物が回る。情報が回る。

 国の骨格が変わる。

「お市様」

 蜂須賀が、書付を抱えてやって来た。

「船の話ですが……」

 そこへ藤吉郎――ではない。

 今日は堺にいない日だ。鳴海にいる者たちが動く番。

 九鬼嘉隆が、肩を揺らして笑いながら現れた。

「お市様。船の“研究開発”とやら、承ったが――」

「うむ」

「それ、研究開発じゃなくて、ほぼ造船じゃな?」

「うむ」

「丸投げじゃな?」

「――信頼じゃ」

 お市が、にこ、とした。

 九鬼が吹き出す。蜂須賀が肩を落とす。

「信頼って便利な言葉ですなぁ……」

「蜂須賀、泣くでない。船は、作れる者が作る」

「作れる者が作る、の一言で、人が十年老けます」

 そこへ景虎が、すっと近づいてきた。

 鳴海城に来た頃の、張り詰めた影は薄い。

 月下の誓いで“姉”となった今、彼女の息はここでは少しだけ自由だった。

「船は、越後にも要るのだな」

「要る。姉上の海を、姉上が使うのじゃ」

 お市は、景虎の袖を軽く引いて、縁側に座らせた。

 風が、髪を揺らす。

「姉上。武田は北上する」

「……川中島」

「そうじゃ。八幡原」

 景虎の声は低い。

 越後の地図が、頭の中にある者の声だ。

「甲斐は痩せる。石高は少ない。金山は出るが、出すだけで終わる。兵糧の“底”が見える」

「……晴信は強いが、国が苦しい」

「なら、越後は?」

 お市が問うと、景虎は答える。

 答えながら、自分の国の“強み”を思い出していく。

「海がある。北へ行ける。蝦夷にも届く。魚と獣で飢えぬ」

「そうじゃ。交易で国は腹が満ちる。腹が満ちれば、女は女でいられる」

 景虎の瞳が、わずかに揺れた。

 “女として生きる”――口にしたことがない願い。

 それを、ここでは否定されない。

「姉上は、守られてばかりで申し訳ない、と言う」

「……言った」

「だが、姉上にしかできぬことがある」

 お市は、指折りではなく、言葉で繋げていった。

 箇条書きの命令ではない。

 未来の道筋として。

「越後の民を、海へ出す。沿海州に拠点を作る。柏崎から佐渡へ、さらに北へ――交易路を“姉上の名”で固める」

「……名で固める?」

「民は、“姉上がいる”と思えば、心が折れぬ。城も、畑も、港も、姉上が立っているだけで整う」

 景虎が、息を吸った。

 戦の勝ち負けとは別の“勝ち方”が、そこにあった。

「そして、鳴海で学ぶのじゃ」

「火縄銃か」

「早合、三段打ち」

 お市の声が少しだけ弾む。

 悪だくみをする時の声だ。

「姉上の車がかりの陣――あれは、回転と圧の芸術じゃ。ならば、火縄の三段打ちを“車がかり”にする」

「……撃って、下がり、装填して、また撃つ」

「そう。歩兵が回る。騎馬が押す。鉄砲が壁になる」

 景虎の目に、青白い炎が宿った。

 軍略の天才が、“勝てる形”を見つけた時の光だ。

「晴信は……それを嫌う」

「嫌う前に倒す」

「……お市、容赦ないな」

「姉上を泣かせる者には、容赦せぬ」

 景虎が、ふっと笑った。

 ほんの少しだけ、女の笑いだ。

「それで、お市」

「うむ?」

「私は、いつまで鳴海にいればよい」

 お市は、にこにこしたまま、きっぱり言った。

「いつまででも」

 景虎が目を丸くする。

 慶次が遠くで「また重いこと言う!」と茶々を入れる。

 利家が「黙れ慶次!」と怒鳴る。

 朝の鳴海は忙しい。

「戻りたくなったら、その時に戻ればよい」

「……仙桃院が」

「伊賀の上忍が三人おる。こゆき、つらら、みぞれ――姉上の家臣として使えばよい」

「私の……家臣」

「仙桃院の影を断つ“盾”になる」

 景虎は、言葉を探して、結局見つからず――小さく頷いた。

「それと、今年の尾張じゃ」

「今川義元か」

「そう。姉上には軍師として手伝ってほしい。八月に作戦を組む。年内に義元を釣り出す」

「……釣る、という言い方が」

「わらわは商人でもあるからの」

 お市は、笑って言った。

 景虎が、つられて笑う。

 その瞬間、景虎の肩から、目に見えない鎧が一枚落ちた気がした。

『狂犬記』作者・桃の日記

天文二十三年 卯月下旬(新暦五月二十八日) 鳴海にて

 堺帰りの朝は、火薬の匂いが濃い。鳴海は城なのに、工房と道場と市場が一つになっている。お市様の国は、戦より先に“暮らし”が勝っている気がする。

 今日、景虎姉上の目が光った。

 利家殿が困っていた三段打ちの乱れを、姉上は一息でほどいた。失敗を叱らず、失敗の“形”を見て、直す順番を出す。あれは天才だ。戦場で人が動く絵が、姉上には見えている。

 お市様は、丸投げと言いながら、本当に人を信じる。

 信じるから、任せる。任せるから、皆が育つ。

 そのうえで、要所だけは外さない。

 姉上の心の傷も、同じやり方で治しているように見える。押さえつけず、逃げ道を作り、戻る道を作る。

 「いつまででも鳴海におれ」と言った時、姉上の顔が一瞬だけ幼くなった。

 あの顔を見てしまうと、私は思う。

 この戦国で、誰かを救うのは刀ではなく、居場所なのだと。

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