112話 越後沿海州貿易、明から銀を回収しよう! ――仙桃院からの自立――**
西暦:1554年5月18日 朝
和暦:天文二十三年(1554年)四月十八日 辰の刻
場所:伊勢湾沖/中古キャラック船・甲板(熱田港へ帰航中)
潮の匂いが、まだ春のままだった。
伊勢湾の波は小さく、白い泡が帆走の脇を撫でていく。
高い舷側。
舶来の中古キャラック――港の安宅船とは違い、木の厚みも、縄の太さも、甲板の広さも、まるで「国が一つ乗っている」ようだ。
「……でかいなぁ」
前田慶次が、わざとらしく腕を広げた。
「鳴海城の評定の間、丸ごと乗るわ。台所も乗る。なんなら、利家の小言も乗る」
「それは積みたくない」
服部せつなが即答し、百地さくらが吹き出した。
「小言は積載禁止です!」
藤林あやめが、きっちり真顔で続ける。
「重量超過です。沈みます」
「沈むのは利家の機嫌だけでええ」
慶次が笑って、潮風に髪を揺らす。
その会話の向こうで――
長尾景虎は、舶来の帆や滑車をじっと見ていた。
狂犬織の着物。
尼の装いではない。
胸元はまだ硬く結ばれているが、顔色は戻り、目は澄んでいる。
越後の寒さとは違う、尾張の風が、頬を温めていた。
「姉上。寒うないか」
お市様が、すっと隣へ立つ。
「寒くはない……ただ」
景虎は、甲板の上の人々を見回して、ぽつり。
「……この人数、この船、この水軍。戦に出るようで、戦ではない。わたしは、まだ、慣れぬ」
お市様は、頷いた。
「慣れぬのが正しい。これは戦じゃない」
少し間を置いて、さらりと言う。
「……戦より、帳簿のほうが血が出ることもある」
「怖いこと言わないでください、姫様」
さくらが肩をすくめる。
「帳簿、血が出るって」
「出るぞ?」
お市様が平然。
「字が小さい。目が死ぬ。つまり血が出る」
あやめが、すぐに乗る。
「視力の死は、社会的死です」
「やめろ、伊賀の娘たち」
慶次が腹を抱える。
「その理屈、強すぎる」
船尾では、九鬼嘉隆が水軍の者へ号令を飛ばしていた。
安宅船十艘を一定間隔で守らせ、カラベル二隻を先行させ、故障したガレオンを曳く船の負担を見ている。
「ガレオンは“重い棺桶”みたいなもんだな」
慶次がぼやく。
「棺桶言うでない」
お市様が、つい笑いながら扇子で叩く。
「だが、あれは直せば働く。働かぬ者より良い」
「利家、聞いたか」
せつなが即座に刺し、全員が一斉に笑った。
景虎は、笑いの輪を見つめて、少しだけ口元を緩める。
笑うことに、許可が要らない。
その空気が、彼女には新鮮だった。
お市様は、話を切り替えるように、手の中の小さな木札を景虎へ渡した。
木札には、墨で大きく一文字。
「帳」
「……帳?」
景虎が首をかしげる。
「帳簿じゃ」
お市様が、さらり。
「姉上は、越後の上に立つなら、まずここを覚えよ。刀より先に、数じゃ」
「数で国が守れるのか」
「守れる」
お市様は迷わない。
「国は腹で動く。腹が満ちれば、争いは減る。
腹が減れば、忠義も義理も腹の音に負ける」
景虎の瞳が揺れた。
越後の冬、飢え、家臣団の圧、戦に依存する空気――思い当たることが多すぎる。
「藤林長門に、命を出した」
お市様が、海の向こうを見ながら言う。
「春日山城下に、藤屋・百屋・福屋を開かせる」
「越後に……狂犬堂の店を?」
景虎が驚く。
「“狂犬堂”と名乗らせぬ」
お市様は笑う。
「外から見れば、ただの商家。中身は、わらわの物流と信用じゃ」
そこへ、犬神阿国が一歩近づいた。
簀巻きから救われた元・飛び加藤。
いまは、きちんと結い上げた髪と、狂犬織の羽織。
まだ目に拗らせは残るが、声は前より素直だった。
「……姫様。あたし、分かんないっす」
阿国が、まじめに眉を寄せる。
「越後に売るのは分かる。でも、“沿海州”って……どこっすか」
「北のもっと北」
せつなが淡々。
「寒い。黒テンがいる」
阿国が目を輝かせた。
「黒テン!それ、毛皮っすよね!高いやつ!」
お市様が、そこだけは少し嬉しそうに頷いた。
「うむ。堺の豪商は、毛皮に弱い。南蛮も弱い。
人はな、寒さと見栄に弱い」
「姫様、名言みたいに言わないでください」
さくらが笑い、景虎がまた小さく息を吐いた。
お市様は、指を折って説明する。
「柏崎から佐渡へ。
佐渡は銀が出るが、わらわの狙いは“銀山”ではない」
「……では、何だ」
景虎が真剣に聞く。
「銀の流れじゃ」
お市様は、甲板を軽く踏んで言った。
「いま日本の銀は、どこへ行っておる?」
慶次が、適当に答える。
「堺から、博多から……南蛮船で明へ」
「そうじゃ」
お市様は、そこに指を立てる。
「ならば、逆をやる」
景虎が、喉を鳴らした。
「……明から、銀を戻す?」
「戻す」
お市様は、断言する。
「女真が明にて狂犬堂の商品を売り、明の銀で支払いを受ける。
女真は、その銀と黒テン毛皮で、こちらへ支払う。
日本の金銀は“追加で出ていかず”、むしろ――」
扇子が、すっと景虎の胸元へ向く。
「堺や博多から出て行った銀を、沿海州経由で回収する」
景虎は、思わず呟いた。
「……戦をせず、国を豊かにする。しかも、敵の財布から奪う」
「奪うと言うな」
お市様が、わざと優しく叱る。
「交易で取り戻す。
名目はいつも“正しい顔”をしておるものじゃ」
阿国が感動した顔で、ぽんと手を打つ。
「姫様、悪い顔して正しいこと言う!」
「褒めておらぬ」
あやめが即座に阿国の頭を小突いた。
景虎は、さらに疑問をぶつけた。
「黒テンの毛皮は、越後で留めるのか」
お市様は首を横に振る。
「姉上が、黒テンを堺へ持ち込み、南蛮へ売る」
「……南蛮へ?」
「南蛮は、毛皮を好む。特に上物をな」
お市様は、さらりと“世界の話”を混ぜる。
「南蛮の金銀はな、戦で占領している“新しい大陸”から、日の本より出るらしい」
景虎が目を丸くする。
「新しい大陸……?」
「阿国、ここで目を輝かせるでない」
せつなが先に釘を刺す。
阿国はすでに輝いていた。
「え、金銀が湧く島みたいなやつっすか!?行きたいっす!」
「行かぬ」
お市様が即答。
「いま行けば、帰れぬ。遠すぎる。
だが、知っておくのは武器じゃ」
景虎は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
越後では、女であることを隠し、戦場でしか自分の価値を証明できなかった。
だがここでは――知ること、動かすこと、作ることが価値になる。
「姉上」
お市様が、柔らかく言った。
「越後が豊かになれば、仙桃院の圧も、家臣団の圧も、弱まる」
景虎の指が、思わず着物の袖を握った。
「豊かさは、鎖を解く」
お市様は続ける。
「姉上が女として生きる道は、戦場ではなく――城下に作れる」
景虎の目が揺れる。
怖い。
だが、怖さの種類が違う。
死の恐怖ではなく、自由の恐怖だ。
そのとき、九鬼嘉隆がこちらへ来た。
「姫様。熱田へ入る潮、よろしい。昼前には着きましょう」
「うむ、嘉隆。ご苦労」
お市様が頷き、景虎へ顔を向ける。
「見よ、姉上。ここからが始まりじゃ」
景虎が、小さく息を吸う。
「……わたしは、帳簿を学ぶ。
仙桃院の手から、越後をほどく」
「よい」
お市様は満足げに笑う。
「では、最初の課題じゃ。
“黒テン一枚を堺でいくらにするか”」
「いきなり俗!」
さくらが噴き、慶次が大笑いした。
「俗でよい」
お市様が真顔で言う。
「俗は強い。俗は人を動かす。
そして俗が満ちると、心は静まる」
景虎は、笑ってしまった。
本当に、少しだけ。
その笑いが、胸の奥の痛みを薄める。
(場面転換:鳴海城・留守居)
――同じころ。鳴海城。
木下藤吉郎は、城の片隅の詰所で、書付を握りしめていた。
お市様から届いた短い文。
「帳簿を読め。銀は流れで回収せよ」
「……流れ、か」
藤吉郎は唇を噛み、机の上に自分で引いた地図を広げる。
知多、堺、博多、越後、佐渡、沿海州。
「戦で奪うんやない。
“道”を握って、勝手に集まるようにする……」
指が、自然と交易路をなぞる。
頭の中で銭が回り始める。
「姫様は……国を一つ、商いで作る気や」
藤吉郎は、笑うでもなく、震えるでもなく――ただ、深く息を吐いた。
「……負けたくないな。
俺も、知恵にせな」
――狂犬記・作者 桃――(お市様 日記)
天文二十三年 四月十八日 辰の刻 伊勢湾沖
船は、国の形に似る。
帆は志、縄は縁、舵は決断。
景虎姉上は、今日、少し笑った。
あれでよい。笑いは薬じゃ。
仙桃院の鎖は、刀で断つより、
銭と腹でほどくほうが早い。
明の銀は、すでに日の本の汗の代価。
ならば、取り戻すは道理。
黒テン一枚、堺でいくらにするか。
俗を笑う者は、俗に負ける。
――わらわは狂犬。
だが吠えるより先に、流れを変える。




