111話 名付け親 お市様 ――名は、鎖にも、翼にもなる――
西暦:1554年5月10日 夜
和暦:天文二十三年(1554年)四月十五日 夜(卯月・晩春)
場所:堺・藤屋(伊賀忍び商家)/庭
藤屋の庭は、昼の商いの熱が引いて、潮の匂いと線香の残り香が混じる。
蔵の戸は内鍵。外からも内からも、易々とは開かぬ。
簀巻きのまま転がされた“いたち”――飛び加藤は、まだ強がりの息を残しながらも、目の奥は涙で濡れていた。
行灯の灯が揺れるたび、縄の影が太く見えたり、細く見えたりする。
縁側には景虎姉上。膝の上で指が一度だけ強く握られた。
その気配を、伊賀の姉上たちが見落とすはずもない。
百地こゆきが鼻をひくつかせる。
「……泣いてる匂い。悔しさの匂い。あと、“褒められたい匂い”」
藤林つららが即座に叩く。
「匂いで心を言語化するな、姉上」
服部みぞれが肩を揺らして笑う。
「でも当たってるで。あの目、承認欲求でぎらっぎらや」
「みぞれ、言い方」
「言い方やなくて事実や。忍びの闇より目が光ってる」
さくらが真顔で頷く。
「場が散ると、いたちが散る」
あやめが額を押さえた。
「散らんわ。もう簀巻きや。……いや、散るかもしれんけど!」
せつなが小声で釘を刺す。
「いま散らすと、姫様が散らす」
慶次は松風の手綱を弄びつつ、やや退屈そうに首を鳴らした。
「伊賀の姉ちゃんら、口が多い。……逃げるで、その“天才”」
つららが冷たく返す。
「逃げたら撃つ。私は火力担当」
「物騒すぎるわ」
みぞれがニヤリ。
「でもつらら姉の火力は伊賀一や。天才も泣く」
「もう泣いてる」せつなが二度目の小声。
――そこで、お市様が庭の真ん中へ出てきた。
膝に抱えたのは津軽三味線。弦に触れる指は静かで、しかし場の空気だけは一息で締まる。
お市様は、簀巻きの飛び加藤を見下ろした。
「飛び加藤よ」
名を呼ばれ、飛び加藤の肩が跳ねた。
あの名は、仙桃院に撫でられるための名。
その名を呼ばれた瞬間、胸の奥に刺さったのは、懐かしさではなく、屈辱だった。
「そちは天才と申したな」
お市様は、三味線の撥をくるりと指で回す。
「ここにいる伊賀上忍に捕まり、簀巻きにされて――まだ、天才と言うか?」
飛び加藤は唇を噛み、目を逸らした。
答えない。答えられない。
強がりを口にすれば、また笑われるだけだと分かっている。
お市様は、わざとらしくため息をひとつ。
「お主、いつまで仙桃院に“よゐこよゐこ”してもらう気じゃ?」
景虎姉上の目が、僅かに揺れた。
「孤児ゆえ、母が欲しかったのか。
仙桃院に“歪んだ愛”を刷り込まれておるの、分からなかったのか?」
その言葉は、刃だった。
飛び加藤の顔が歪み、やがて涙がぽろりと落ちる。
一本、また一本。
堺の夜の土に吸われていく。
「……そ、そんな……」
声が震え、最後は泣き声に変わった。
天才の仮面が、泥の上に落ちる音がした。
お市様は、三味線を軽く鳴らす。
ぼん、と低い音。
それだけで、泣き声が一瞬止まる。
「認めてもらいたいのじゃろ?」
「……っ」
「己自身を、わらわがよゐこよゐこしてやろうか?」
庭にいた全員が、反射で固まった。
この“狂犬”の口から、そんな甘い言葉が出ると、誰も予想していない。
こゆきが小声で感嘆する。
「姫様、優しさが急に暴力」
「表現が酷い」つららが即座に修正する。
「姫様、切り替えが早い。医者の声」
みぞれが笑う。
「医者の声やなくて、名付け親の声や」
お市様は笑い、しかし視線は飛び加藤を外さない。
「やとうてやろうか? 千貫でやとうぞ」
慶次が吹き出す。
「おいおい、泣いてる相手に条件提示が早い!」
お市様は平然。
「狂犬じゃからの。契約は早い」
飛び加藤は泣きながら、喉を鳴らした。
“雇う”という言葉が、鎖にも救いにもなるのを、直感で理解している。
「名を変えよ」
お市様が続ける。
「わらわは、三ヶ月に一度、ライブをやる。民衆が叫ぶ。
――認めてもらうなら、仙桃院ではなく、世間から貰え」
飛び加藤は息を詰めた。
“表”に出ろ、と言われている。
忍びが最も避けてきた場所へ。
「そちは裏ばかりじゃろ?」
「……」
「表に出て、叱られろ。褒められろ。銭を稼げ。
裏はついでじゃ。――分かったか」
飛び加藤の目に、初めて“恐れ”ではなく、“希望”が灯る。
その灯を見て、お市様は、撥を置いた。
「さて」
ここからだ、と空気が変わった。
「飛び加藤よ。自分自身で名を付けれぬのなら、わらわが、名字と名を付けてやろうか?」
「……」
「ただし名は重いぞ。名だけでなく、名字となればなお重い。受けるか?」
飛び加藤は、涙を流したまま、しばらく黙った。
考えているふりをした。
だが、答えは最初から決まっている。
“欲しい”のだ。名を。自分を呼び留めるものを。
「……受けます」
お市様は頷く。
「考えても分からんじゃろ。父親も母親も、たいして考えず名を付ける」
自嘲気味に胸を指す。
「わらわは“市”ぞ。意味があるのか?
名の通り商売好きで商売繁盛じゃが、つまらぬ名なぞ意味なくとも有難い」
そして、飛び加藤を見下ろす。
「いるか? 名字名前は?」
「……要ります」
「よし」
お市様は少しだけ柔らかく笑った。
「日の本は、そちの母であり父じゃな。
なら、名は――**阿国**はどうじゃ」
阿国。
表に立つ名。
舞台の名。
忍びが隠れられなくなる名。
飛び加藤――いや、まだ飛び加藤は、息を呑んだ。
「……阿国……」
景虎姉上が、その名を一度だけ口の中で転がす。
何かを失う予感と、何かを取り戻す予感が同居していた。
お市様は続ける。
「名字が欲しいなら、あとで付けてやるぞ。……が」
声音が、少しだけ“狂犬”になる。
「わらわの家臣団で、わらわから名字をもらった者は、まだおらぬ。そちが一番じゃ」
伊賀上忍三人の目が、一段深くなる。
名字は“家”そのもの。
与えた瞬間から、逃げられない。
お市様は、にやり。
「犬神はどうじゃ? すこしカブいておるが、よいじゃろ」
慶次が腹を抱える。
「犬神! ええやん! 狂犬の眷属や!」
つららが冷ややかに言う。
「噛み癖が治らないなら、名に負ける」
みぞれが笑う。
「名に負けたら、尻尾切られるで」
「みぞれ、脅すな」
こゆきが優しく補足する。
「でも阿国ちゃん、犬神は守りの名でもあるよ。……噛むの、守るためならね」
さくらが頷く。
「守りの噛みつき」
あやめが頭を抱えた。
「語彙が怖い!」
お市様は、決めるように言い切った。
「犬神阿国じゃ」
飛び加藤の目から、涙が止まらなくなる。
泣きながら、笑った。
初めて“自分の名”を、貰った顔だった。
「……ありがとうございます」
「よし。……ただし」
お市様の声が、医者の声になる。
優しいのに、逃げ道がない。
「犬神阿国は、今夜から仙桃院の“よゐこ”ではない。
わらわの庭で、生き直せ。
そして景虎姉上を“監視”するのは終わりじゃ。次は“守れ”」
阿国は、泣きながら頷いた。
その頷きは誓いというより、現実に足をつける合図だった。
景虎姉上が、かすかに息を吐く。
長い影の一本が、ほんの少し短くなった気がした。
堺の夜。
名が生まれ、鎖がほどけ、代わりに新しい紐が結ばれる。
――その紐は、逃げないための紐だ。
◉狂犬記 作者・桃(日記)
天文二十三年(1554年)四月十五日 夜
今日は、名が生まれた日。
飛び加藤は、泣いて、笑って、「犬神阿国」になった。
姫様は、優しい。だけど優しさが甘くない。
逃げ道を塞ぐ代わりに、生き道を作る。
それが医者のやり方で、統治のやり方で、狂犬のやり方だ。
景虎姉上の顔が、ほんの少しだけほどけた。
仙桃院という影はまだ濃いけど、名を呼び直すだけで影は薄くなる。
伊賀の姉上たちが、笑いながらも目が怖かった。
「名字」はそれくらい重い。
明日から阿国は、表に立つ。
藤屋の店先で、叱られて、褒められて、泣いて、また笑う。
その繰り返しが、きっと心の病退治になる。
お市様(狂犬)ひそやか日記
天文二十三年(1554年)四月十五日 夜
名は、人を縛る。じゃが、人を救う。
阿国は、母を欲した。
仙桃院は、その飢えに蜜を塗り、鎖にした。
わらわは鎖は好かぬ。
代わりに、逃げぬ紐を結ぶ。
「犬神」は、噛む名。守る名。
阿国が自分を噛み千切らぬよう、わらわが面倒を見る。
景虎姉上の影が薄くなるまで。
さて、明日から藤屋の店先が修羅場じゃな。
阿国が泣けば、尻を叩く。
笑えば、よゐこよゐこしてやる。
ただし、銭も稼げ。狂犬じゃからの。




