109話 いたち捕物帖 ――仙桃院の影――
西暦:1554年5月10日 夜
和暦:天文二十三年(1554年)四月十五日 夜
場所
堺・藤屋(伊賀忍び商家)/蔵
蔵は、静まり返っていた。
内鍵、梁止め、床の縄抜け封じ。
忍びが忍びを封じるための、完璧な檻。
簀巻きにされた飛び加藤は、蔵の中央に転がされている。
口は塞がれていない。
――喋らせるためだ。
灯りは一つ。
揺れる炎が、影を大きく歪める。
その影の前に立つのは、狂犬お市様。
横には、長尾景虎(姉上)。
周囲を固めるのは、
藤林長門、
百地こゆき、藤林つらら、服部みぞれ、
さくら、あやめ、せつな。
誰も、剣を抜いていない。
――もう、必要がないからだ。
狂犬の問い
お市様は、低く、淡々と問うた。
「香水・お市を、なぜ盗んだ」
飛び加藤は、視線を逸らし、笑った。
「価値があるからだ。
堺の女も、京の貴族も、皆、欲しがる」
「違う」
即断。
「そなたは、売る気などない」
飛び加藤の指先が、わずかに動いた。
「香りは、情報じゃ。
誰が、どこで、誰と会ったか――
忍びは、匂いで人を追う」
沈黙。
お市様は、続ける。
「香水お市は、
“動く人間関係”を可視化する道具。
そなたは、それを景虎姉上の監視に使った」
飛び加藤は、否定しなかった。
景虎を管理する理由
景虎姉上が、一歩前に出た。
「……なぜ、そこまでせねばならぬ」
声は静かだが、重い。
飛び加藤は、しばらく黙り、やがて答えた。
「命令だ」
「誰の」
「仙桃院様」
蔵の空気が、冷えた。
仙桃院の影
お市様が、間を置いて問う。
「仙桃院は、何を望んだ」
「越後の安定」
「嘘じゃ」
お市様は、きっぱりと言った。
「安定ではない。
支配じゃ」
飛び加藤の目が、揺れる。
「景虎姉上が女であると知られれば、
越後は割れる。
だから仙桃院は、
“長尾景虎は男である”
という嘘を流し続けた」
つららが、低く舌打ちする。
「そのための、監視役か」
飛び加藤は、苦笑した。
「近づく女は排除した。
疑う家臣は、事故に遭わせた」
景虎姉上の手が、震えた。
「……それが、姉上の愛か」
飛び加藤は、答えない。
給料と鎖
お市様が、最後の問いを投げる。
「給料はいくらじゃ」
「年三百貫」
長門が、鼻で笑う。
「安い」
「金だけではない」
飛び加藤は、歯を食いしばる。
「“特別”だ。
私は、必要とされている。
天才だと、言われる」
その言葉を、お市様は切り捨てた。
「それは、餌じゃ」
飛び加藤が、息を呑む。
「承認欲求で縛るのは、
最も卑しい支配じゃ」
お市様は、景虎姉上を見た。
「姉上は、逃げた。
それが、そなたの敗北じゃ」
選択
蔵に、長い沈黙が落ちる。
お市様は、静かに告げた。
「飛び加藤。
そなたは、仙桃院の影として生きるか」
一歩、近づく。
「それとも――
己の意志で生き直すか」
飛び加藤の目に、初めて迷いが宿った。
◉狂犬記・お市様日記
天文二十三年四月十五日 夜
いたちは、盗賊にあらず。
鎖をつけられた忍びであった。
姉上の心を縛ったのは、
刃ではなく、
“善意”を装った支配。
心の病は、
見えぬところで、人を壊す。
それを断つのが、
わらわの役目じゃ。
蔵の灯が、静かに揺れる。
飛び加藤は、まだ答えを出していない。
だが――
仙桃院という巨大な影は、
確かに、この夜、姿を現した。




