第107話 いたち捕物帖 ――狂犬式・捕物帖、開幕――
西暦:1554年5月9日
和暦:天文二十三年 四月九日
時刻:朝
場所:堺・藤屋奥座敷
堺の朝は早い。
港から運ばれる潮の匂いと、商人たちの低い声が、町を目覚めさせていく。
藤屋の奥座敷では、すでに一つの作戦が静かに動き出していた。
狂犬お市様は、障子越しの朝光を背に、藤林長門と向き合っていた。
隣には景虎姉上。
表情は穏やかだが、その眼差しは、完全に“狩る側”のものだった。
「――藤林長門」
「はっ」
「藤屋で、香水《お市》を売れ」
長門の眉が、わずかに動いた。
「……堺では、これまで扱っておりませぬが」
「だからじゃ」
お市様は、こともなげに言った。
「予約販売にせよ。
在庫は、藤屋の蔵に“あることにする”」
景虎が、はっとしてお市を見る。
「妹よ……それは」
「釣りじゃ」
お市様は微笑んだ。
だが、その笑みには一切の甘さがなかった。
「香水《お市》は、鳴海の蔵でしか生産しておらぬ。
堺で嗅げば、誰かが必ず“動く”」
藤林長門は、深く息を吸った。
「……いたち、でございますな」
「うむ」
お市様は、頷く。
「香りを盗み、名を盗り、姿を変える女。
香水《お市》を使えるのは、盗んだ者だけじゃ」
景虎の指先が、膝の上でわずかに強張った。
お市様は、それを見逃さない。
「姉上。心配せずともよい」
「……」
「藤屋が伊賀上忍の屋敷とは、誰も思わぬ」
その言葉に、藤林長門は小さく笑った。
「確かに。
外から見れば、ただの堺の商家」
「じゃろ?」
お市様は、楽しげに言った。
「――罠は、派手なほど気づかれぬ」
一方、その頃。
藤屋の裏通りでは、すでに影が動いていた。
百地さくら、藤林あやめ、服部せつな。
三人は別々の方向から、同じ“違和感”を追っていた。
「……やっぱり、足が軽すぎる」
さくらが、低く呟く。
「香りは本物。でも、歩き方が忍び」
あやめは、屋根の影から町を見下ろす。
「つらら姉上なら、もう確信してるわね」
「うん」
せつなが、口元だけで笑った。
「――いたち、だ」
三人の視線が、自然と一点に集まる。
香水《お市》の香りを、わざと残しながら歩く女。
美しく、堂々としていて、しかし――
“誰にも見られていないつもり”の足取り。
忍びの足跡だった。
奥座敷に戻る。
お市様は、最後に一言だけ告げた。
「捕物は、血を流す必要はない」
長門が、静かに頷く。
「生け捕り、ですな」
「うむ」
お市様の声は、冷静だった。
「――あれは、敵である前に、壊れた忍びじゃ」
景虎は、その言葉を胸に刻むように、深く息を吐いた。
こうして。
香水《お市》を餌にした捕物帖が、
堺の町で、静かに幕を開けた。
◉狂犬記(桃・記)
天文二十三年 四月九日。
香りは嘘をつかぬ。
人は嘘をつく。
盗む者は、必ずもう一度、触れに来る。
今日は刃を抜かぬ戦。
それでも、覚悟は同じ。
姉上の心が、これ以上縛られぬように。
――いたち、必ず捕らえる。




